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溥儀の編集履歴

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溥儀

ぷーいまたはふぎ

宣統帝 清朝の第十二代皇帝 即位2歳(3歳) 満州国執政・皇帝 植物園庭師 中華人民共和国中国人民政治協商会議全国委員  通称ラストエンペラー Last Emperor 清朝と一万年王朝の最期の主 1906 - 1967

LAST EMPEROR

清愛新覚羅溥儀

(あいしんかくら ふぎ)

繁体字: 愛新覺羅 溥儀

簡体字: 爱新觉罗 溥仪

拼音: Àixīnjuéluó Pǔyí

タカナ転写: アイシンヂュエルオ プーユィー (愛新覚羅の満洲語発音はアイシンギョロ)

  • 世没1906年2月7日 - 1967年10月17日
  • 清朝第12代にして最後の皇帝(在位:1908年12月2日 - 1912年2月12日)、後に満洲国皇帝(在位:1934年3月1日 - 1945年8月18日)。
  • 1964年より中華人民共和国中国人民政治協商会議全国委員

プロフィール

清朝皇帝

  • 在位期間 1908年12月2日 - 1912年2月12日
  • 戴冠 1908年12月2日、於紫禁城太和殿
  • 摂政 醇親王載灃

先代 光緒帝

  • 在位期間(丁巳復辟)
  • 1917年7月1日 - 1917年7月12日

満洲国執政

  • 在位期間 1932年3月9日 - 1934年2月28日
  • 戴冠 1932年3月9日、道台衙門
  • 満洲国皇帝
  • 在位期間 1934年3月1日 - 1945年8月18日
  • 戴冠 1934年3月1日、於杏花村順天広場(告天礼)・帝宮勤民楼(即位式)

出生 1906年2月7日 北京

死亡 1967年10月17日(満61歳没) 中華人民共和国北京

  • 埋葬 1995年中華人民共和国、河北省保定市易県、華龍皇家陵園
  • 実名:溥儀
  • 変名:耀之 (字)
  • 浩然 (号)

年号

  • 清朝 宣統 : 1909年 - 1912年
  • 満洲 大同 : 1932年 - 1934年
  • 康徳 : 1934年 - 1945年

帝室:愛新覺羅

  • 父親 醇親王載灃
  • 母親 醇親王妃蘇完瓜爾佳氏

配偶者

  • 孝恪愍皇后郭布羅氏
  • 淑妃鄂爾德特氏
  • 祥貴人他他拉氏
  • 福貴人李氏
  • 李淑賢

居所

  • 清朝:紫禁城
  • 満州国:帝宮

人物概説

  • 中華世界の最終皇帝(ラストエンペラー)として知られる。清朝皇帝時代には、治世の元号から中国語で宣統帝、満州語でゲフンゲ・ヨソ・ハンと称された。清朝滅亡後に大日本帝国政府の支持のもと満洲国の執政に就任、満洲国の帝政移行後は皇帝に即位し、康徳帝(1934年 - 1945年)と称した。
  • 満洲国の崩壊とともに退位し、ソ連軍の捕虜となった。撫順戦犯管理所からの釈放後は北京植物園に勤務、晩年には中国人民政治協商会議全国委員に選出された。
  • 字(あざな)を「浩然」あるいは「耀之」という。廟号は恭宗(2004年に与えられたが、公式ではない)。また、辛亥革命後の呼称としては、廃帝と国民党政府から呼ばれる一方、旧清朝の立場からは遜帝(「遜」は「ゆずる」の意)とも呼ばれた。末皇帝(末帝)と呼ばれる場合もある。

生涯の略年表

  • 1906年:醇親王載灃の子として北京に生まれる
  • 1908年:第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位
  • 1912年:辛亥革命により退位
  • 1917年:張勲復辟により清朝皇帝に復位するも、10日あまりで再び退位
  • 1919年:イギリス人のレジナルド・ジョンストンを帝師として招聘
  • 1922年:正妻の婉容、側室の文繍と結婚
  • 1924年:クーデターにより紫禁城から退去。ジョンストンが帝師を退任
  • 1925年:イギリスやオランダ公使館へ庇護を要請するものの拒否され、天津日本租界内張園に移転
  • 1931年:文繍と離婚。満洲事変勃発後、大日本帝国陸軍からの満洲国元首への就任要請を受諾し、日本軍の手引きで天津を脱出、満洲へ移る
  • 1932年:満洲国の建国に伴い満洲国執政に就任
  • 1934年:満洲国皇帝(康徳帝)に即位
  • 1935年:初の外国訪問として日本を公式訪問
  • 1937年:譚玉齢を側室とする
  • 1940年:日本を再び公式訪問、最後の外国訪問となる
  • 1942年:側室の譚玉齢が死去
  • 1943年:李玉琴を側室とする
  • 1945年:満洲国の崩壊に伴い皇帝を退位し、その後日本への亡命途中に、侵略してきたソ連軍の捕虜になる
  • 1946年:極東国際軍事裁判にソ連の証人として出廷させられる、正妻の婉容死去
  • 1950年:中華人民共和国に身柄を移され撫順戦犯管理所に収容される
  • 1959年:模範囚として釈放され、その後北京植物園を経て政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員会に勤務
  • 1962年:李淑賢と再婚
  • 1964年:中国共産党政治協商会議全国委員に選出される
  • 1967年:北京で死去

生涯

生誕

  • 1906年に、清朝の第11代皇帝光緒帝の皇弟である醇親王載灃と、光緒帝の従兄弟で、西太后の腹心栄禄の娘である瓜爾佳氏・幼蘭の子として、清国(大清帝国)の首都である北京に生まれる。なお、祖父は愛新覚羅奕譞、曽祖父は道光帝となる。
  • 第12代清朝皇帝
  • 1900年に発生した義和団の乱を乗り越え、当時依然として強い権力を持っていた西太后が1908年に光緒帝の後継者として溥儀を指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代・宣統帝となった。即位式は紫禁城太和殿で行われ、新しい皇帝の即位は世界各国で大きく報じられた。その後溥儀は多くの宦官や女官らとともに紫禁城で暮らすこととなる。
  • 西太后は溥儀を後継者とするとともに、溥儀の父・醇親王を監国摂政王に任命して政治の実権を委ね、同年11月14日に光緒帝が崩御した翌日に74歳で崩御した。
  • 光緒帝の崩御に関して、当初から毒殺されたのではないかという説があり、2007年に行われた調査では、光緒帝の遺髪から大量の砒素が検出されたため、毒殺の可能性がより濃厚になった。誰が光緒帝を暗殺したかについては、西太后と光緒帝の死亡時期が近いため、「西太后が光緒帝を自分よりも長生きさせないために暗殺した」とする説がある一方で、「戊戌変法で光緒帝を裏切っている袁世凱が、光緒帝が復権して自身に報復するのを恐れて暗殺した」という説もあり、溥儀は自伝『わが半生』で「袁世凱による殺害」という見方を示している。しかし、いずれも証拠がなく、誰が光緒帝を暗殺したかは不明である。

清朝崩壊と退位

  • その翌年の1909年初めに醇親王は、兄である光緒帝を裏切って戊戌変法を潰したとして憎んでいた北洋大臣兼直隷総督の袁世凱を失脚させ、さらに袁世凱を殺害しようとしたが、内部情報を得た袁世凱はかろうじて北京を逃れ河南省彰徳に蟄居することとなった。
  • その後袁世凱は、清国政府による民間資本鉄道の国有化とその反対運動をきっかけに1911年10月10日に辛亥革命が勃発すると、湖北省の武昌で起きた反乱(武昌起義)の鎮圧を名目に政界に復帰した。袁世凱は清国政府に第2代内閣総理大臣の地位を要求するとともに、醇親王の摂政王退位を要求した。
  • 反乱鎮圧のために袁世凱の武力に頼らなければならない清朝政府は袁世凱の要求を受け入れたが、袁世凱はさらに、孫文らと溥儀を退位させる代わりに自らが中華民国臨時大総統に就任するという裏取引をし、隆裕太后に溥儀の退位を迫り、隆裕太后は皇族を集めて連日御前会議を開いた。
  • 御前席上で粛親王善耆、恭親王溥偉などは退位に激しく反対したが、清朝皇族が頼りとしていた日本の陸軍士官学校留学生で皇族出身の良弼が暗殺されるという事態におよび、隆裕太后はついに皇帝退位を決断し、1912年2月に溥儀は退位することとなった。
  • 粛親王は日本租借地の旅順へ、恭親王はドイツの租借地の青島に逃れてその後も清朝復辟運動を行った。
  • 溥儀の皇帝退位にあたり、清朝政府と中華民国政府との間に「清帝退位優待条件」が締結された。優待条件は、

一.皇帝は退位後も『大清皇帝』の尊号を保持し、民国政府はこれを外国元首と同等に礼遇すること。

一.溥儀が引き続き紫禁城(と頤和園)で生活すること。

一.中華民国政府が清朝皇室に対して毎年400万両を支払い、清朝の陵墓を永久に保護すること。

  • などが取りきめられた。そのため溥儀は退位後も紫禁城で宦官らと皇帝としての生活を続けた。またこの頃、弟の溥傑と初対面を果たした。

権力なき『大清皇帝』時代

袁世凱の皇帝即位

  • 袁世凱は溥儀に代わり自らが皇帝となるべく奔走し、1915年12月12日に帝政復活を宣言して皇帝に即位した。
  • 1916年1月1日より年号を洪憲と定め、国号を「中華帝国」に改めた。だが北洋軍閥や日本政府などの各方面からの反対により即位直後の同年3月に退位し、失意の中で同年6月に死去した。

張勲復辟事件

  • 袁世凱が死去した翌年の1917年に、対ドイツ問題で黎元洪大総統と政敵の段祺瑞の確執が激化し、同年5月23日には黎元洪が段祺瑞を罷免に追い込んだものの、民国期になっても辮髪を止めないほどの保守派で、革命後も清朝に忠節を尽す張勲が、この政治的空白時に乗じて王政復古によって政権を奪還しようと、中華民国の立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せて、すでに退位していた溥儀を再び即位させて7月1日に帝政の復古を宣言。いわゆる「張勲復辟事件」に発展した。
  • 張勲は幼少の溥儀を擁して自ら議政大臣と直隷総督兼北洋大臣となり、国会及び憲法を破棄し、共和制廃止と清朝の復辟を成し遂げるも、仲間割れから段祺瑞に敗れオランダ公使館に避難。最終的に溥儀の復辟は13日間で挫折した。その後中国大陸は馮玉祥や蒋介石、張作霖などの軍閥による勢力争いという、混沌とした状況を迎えることとなる。

ジョンストンとの出会い

  • 溥儀の後見役的立場になっていた醇親王載灃と、西太后の側近であった李鴻章の息子で、清国の欽差全権大臣を務め、駐イギリス特命全権大使でもあった李經方の勧めによって、近代的な西洋風の教育と併せて英語の教育を受けることを目的に、1919年5月にイギリス拓務省の官僚で、中国語に堪能であったスコットランド人のレジナルド・ジョンストンを帝師(家庭教師)として紫禁城内に招聘した。
  • 溥儀は当初、見ず知らずの外国人であるジョンストンを受け入れることを拒否していたものの、ジョンストンとの初対面時にその語学力と博学ぶりに感心し、一転して受け入れることを決断した。なおジョンストンは紫禁城外の後門付近に居住し、自動車で通勤した。

「Henry」

  • その後ジョンストンより日々「近代的な教育」をうける中で、洋服や自転車、電話や英語雑誌などのヨーロッパの最新の輸入品を与えられ、「洋服には似合わない」との理由で辮髪を切るなど、紫禁城内で生活をしながらも、ジョンストンがもたらしたヨーロッパ(イギリス)風の生活様式と思想の影響を受けることとなる。
  • なおこの頃溥儀はキリスト教徒(プロテスタント)のジョンストンより、「ヘンリー(Henry)」というイングリッシュ・ネームを与えられ、その後もこの名前を好んで使用した。なお溥儀はイングリッシュ・ネームを持ったものの、イングリッシュ・ネームを持つ多くの中国人と同じくキリスト教徒にはならなかった上、この名前は欧米人に対してのみ使用し、決して公式の場で使用したり、中国人に対しては使用しなかった。

結婚

  • 1922年11月には、満洲旗人でダフール族の郭布羅氏・婉容を皇后として、蒙古旗人の鄂爾徳特氏・文繍を淑妃として迎え、紫禁城において盛大な結婚式を挙げる。なお溥儀は「時代遅れの慣習である」として淑妃を迎えることに反対したものの、側近らの勧めで1人だけ迎えることに同意した。またこの際には中国の皇帝として初めて外国人を招待した「歓迎会」を催した。
  • 結婚後に婉容の家庭教師として北京生まれのアメリカ人イザベル・イングラムが就任し、婉容にはイングラムより「エリザベス(Elizabeth)」のイングリッシュ・ネームが与えられた。またこの頃自分用の自動車を入手した他、イギリスやアメリカへの留学を画策するものの、実現することはなかった。

宣統帝の『清朝』の改革

  • この頃溥儀は中華民国内の混沌とした政情の中にあったものの、正妻とジョンストンらの側近、宦官らとともに紫禁城の中で平穏な日々を過ごしていたが、清国の大阪総領事や総理衙門章京、湖南布政使等を歴任した後の1924年に総理内務府大臣(教育掛)となった鄭孝胥の薦めを受けて、紫禁城内の経費削減と近代化を推し進めた。
  • 同年6月には美術品が多く置かれている紫禁城内の「建福院」の目録一覧を作成し、宦官による美術品の横領を一掃することを目論んだものの、目録作成直後の6月27日未明に一部の宦官らが「建福院」に放火し、横領の証拠隠滅を図った。
  • これに激怒した溥儀は中華民国政府の力を借りて約1,200名いた宦官のほとんどを一斉解雇し、国民やマスコミから称賛をうけた。またその後も女官を追放するなど、紫禁城内の経費削減と近代化を推し進め議論を呼んだ。

慈善活動

  • 溥儀は、中華民国内における洪水や飢饉、さらには生活困窮者に対して常に同情を寄せ、これらの支援のために多くの義捐金を送ったものの、その全ては自らの命令で、さらに匿名で行った。
  • 1923年9月1日に起きた関東大震災においては、即座に日本政府に対する義捐金を送ることを表明し、併せて紫禁城内にある膨大な宝石などを送り、日本側で換金し義捐金とするように日本の芳沢謙吉公使に伝えた。-これに対し日本政府は、換金せずに評価額と同じ金額を皇室から支出し、宝石などは皇室財産として保管することを申し出た。その後日本政府は代表団を溥儀のもとに送り、この恩に謝した。
  • なおこの際に、「溥儀は何の政治的な動機を持たず、純粋に同情の気持ちを持って行った」とジョンストンは自書の中で回想している。

紫禁城追放と日本への接近

  • その後も中華民国では中国全土の武力統一を図る軍閥同士の戦闘はますます活発化し、1924年10月にはの馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に伴うクーデター(北京政変)が発生し、直隷派の曹錕が監禁され馮玉祥と孫岳が北京を支配することとなった。

-馮玉祥と孫岳は政変後に、帝号を廃し清室優待条件の一方的な清算を通達し、溥儀とその側近らを紫禁城から強制的に退去させた。

  • 溥儀は醇親王の王宮である北府へ一時的に身を寄せ、その後ジョンストンが総理内務府大臣の鄭孝胥と陳宝琛の意向を受けて上海租界や天津租界内のイギリス公館やオランダ公館に庇護を申し出たものの、ジョンストンの母国であるイギリス公館からは内政干渉となることを恐れ受け入れを拒否される。
  • かつて関東大震災の義捐金などを通じて溥儀と顔見知りであった日本の芳沢公使は即座に受け入れを表明し、溥儀ら一行は11月29日に北京の日本公使館に入り、日本政府による庇護を受けることになった[3]。翌1925年2月には鄭孝胥と日本の支那駐屯軍、駐天津日本国総領事館の仲介で、溥儀一行の身柄の受け入れを表明した日本政府の勧めにより天津市の日本租界の張園に移ることとなる。
  • 1905年の日露戦争の勝利によるロシア権益の移譲以降、満洲への本格進出の機会を狙っていた日本陸軍(関東軍)と溥儀がその後緊密な関係を持ち始めるきっかけとなるものの、この頃の日本政府及び日本陸軍の立場は、あくまでジョンストンの申し出を受けて溥儀を一時的に租界内に庇護するだけであり、溥儀との関係を積極的に利用する意思はなかったばかりか、中華民国および満洲に強い影響力を持っていた溥儀の扱いに困惑していた。

ジョンストンとの別れと再会

  • 溥儀が清室優待条件を失ったことを受けて同年に帝師を辞任したジョンストンは、天津港よりP&Oの汽船でイギリスに帰国した。なお、ジョンストンはイギリスに帰国する直前に天津に滞在していた溥儀を訪問し、この際に溥儀はジョンストンに記念品を下賜している。
  • しかしジョンストンは、溥儀と別れた2年後に1927年にイギリスの租借領であるポート・エドワード(威海衛)の植民地行政長官(弁務官)に就任することとなり再び中華民国へと戻ることとなり、1930年10月に威海衛がイギリスから中華民国へ返還されるまでこの地に駐在した。
  • イギリスに帰国したジョンストンは、その知識、経験と語学力を生かしてロンドン大学の東洋学及び中国語教授に就任し、1931年に太平洋会議への出席のために再び中華民国を訪れた際に溥儀と再会する。
  • 1934年に、溥儀の家庭教師時代から溥儀の満洲国「元首」(執政)までの動向を綴った「紫禁城の黄昏」(原題:『Twilight in the Forbidden City』)を著し[5](なお同書は溥儀に捧げられている)、翌1935年には満洲国を訪れ「執政」となった溥儀と再会するなど、生涯を通じて溥儀との交流は続いた。

国共内戦と東陵事件 [編集]

天津時代の溥儀と婉容

  • この頃も中華民国国内の政治的状況は混沌としたままで、1927年4月には「上海クーデター」が勃発し、蒋介石率いる中国国民党右派が対立する中国共産党を弾圧した。その後、蒋介石は南京にて「南京国民政府」を設立し、党および中華民国政府の実権を掌握するものの、同年7月に国共合作を破棄したことで、ソビエト連邦からの支援を受けた中国共産党の残党が反発し国共内戦がはじまる。

ま-た、溥儀を紫禁城から追放するきっかけとなった北京政変後の1926年に政権を掌握した張作霖の政権も磐石なものではなかった。

  • 張作霖は、孫文の没後にその後を継いだ中国国民党右派の蒋介石が1928年に開始した北伐により、からくも北京より脱出したものの、同年6月、乗っていた列車を関東軍に爆破されて死亡した(張作霖爆殺事件)。その後張作霖の息子の張学良は蒋介石に降伏し、その後両者は相通じて関東軍に対し挑発行動を繰り返すこととなる。
  • このような政治的混乱のなかで、1928年に国民党の軍閥孫殿英の軍隊が河北省の東陵を略奪するという事件が発生した(東陵事件)。
  • なかでも乾隆帝の裕陵と西太后の定東陵は墓室を暴かれて徹底的な略奪を受けた
  • 溥儀は国民政府に抗議したが、孫殿英は国民党の高官に賄賂を贈っていたためになんら処罰されることはなく、溥儀を大いに憤慨させた。東陵事件は溥儀にとって紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な事件であり、これによって清朝復辟の念を一層強くしたという。
  • 文繍との離婚
  • 溥儀の住んでいた日本租界のある天津は、この頃の国共内戦の主な戦闘地域から離れていたことや、日本やイギリス、フランスなどの列強をはじめとする外国租界が多かったため、両軍が租界を持つ諸外国に刺激を与えることを恐れたこと、さらに張作霖爆殺事件以降、急速に関東軍の支配が強まっていたこともあり、国共内戦の影響を受けることはなかった。
  • 引き続き日本政府は溥儀の扱いに苦慮していたものの、この様な状況下で溥儀を自国の租界から追い出すわけにもいかないため、溥儀はその後も天津の日本租界の張園、後に移転した協昌里の静園に留まり、婉容と文繍、そして鄭孝胥をはじめとする紫禁城時代からの少数の側近らとともに静かに暮らしていた。
  • 正妻の婉容との確執が深まった側室の文繍と別居後1931年に離婚し、中国の歴史上初の離婚歴を持つ皇帝となる。離婚後文繍は溥儀に対して慰謝料を求めて告訴した上で、溥儀の性癖や家庭内および宮廷内の内情をマスコミに暴露する。この事を受けて文繍は離婚後すべての位を剥奪され平民となり、小学校の教師として1950年に死亡する。

満洲事変

  • 1931年9月18日、満洲に展開する関東軍を含む日本陸軍が、中華民国の奉天郊外の柳条湖で発生した南満洲鉄道の線路の爆破事件を、「張学良ら東北軍による破壊工作」と断定し(いわゆる「柳条湖事件」)関東軍は満洲を根城にしていた張学良軍との間の戦い、いわゆる「満洲事変」を開始した。
  • 関東軍は奉天や長春、営口などの近隣都市を占領したばかりか、その後21日に、林銑十郎中将の率いる朝鮮駐屯軍が独断で越境し満洲地域一帯に侵攻した。さらに関東軍は、軍司令官本庄繁を押し切ったばかりか、不拡大方針を進めようとした日本政府、日本陸軍の決定を無視して、「自衛のため」と称して戦線を拡大する。
  • その後関東軍はわずか5ヶ月の間に全満洲地域を占領したが、張学良は蒋介石率いる中華民国政府の指示により、まとまった抵抗をせずに満洲地域から撤退し、間もなく満洲一帯は関東軍の支配下に入った。

満洲国建国と清朝復辟の画策

  • その後関東軍は国際世論の批判を避けるため、満洲地域に対して永続的な武力占領や植民地化ではなく、日本の影響力を残した国家の樹立を目論み、親日的な軍閥による共和国の設立を画策した。
  • しかしこの様な形での新たな共和国の設立は、中華民国のみならず、中国大陸に多くの租界と利権を持つイギリスやアメリカ・フランスそして国際連盟加盟国をはじめとする国際社会の支持を得にくいと判断したことから、国家に正統性を持たせるために、清朝の皇帝で満州族出身であり、北京政変による紫禁城追放以降日本租界へ身を寄せていた溥儀を元首に擁いた君主制国家を設立することを画策した。
  • この様な目論みを受けて、関東軍の特務機関長であった土肥原賢二が溥儀の説得にかかるために天津へ向かい、その後溥儀と会談し「満洲国元首」就任の提案を行った。
  • かねてから「清朝の復辟」を熱望していた上、東陵事件後にその思いを強くした溥儀は、土肥原による満洲国元首就任の提案を受けて、清朝の復辟を条件に満洲国執政への就任に同意した。
  • 溥儀は、天津の自宅を出て湯崗子温泉を経て11月13日に営口に到着、旅順の南満州鉄道が経営するヤマトホテルに留まった。
  • なお溥儀が旅順へ向かった後、粛親王善耆の第14王女で、「東洋のマタ・ハリ」、「男装の麗人」と呼ばれ、当時関東軍に協力していた川島芳子が、天津に残された婉容を連れ出すことを関東軍から依頼され、実際に婉容を天津から旅順へ護送する任務を行っている。
  • この様な溥儀の行動に対して、宋子文ら中華民国の有力者が、当時太平洋会議のために中華民国に滞在していたジョンストンに対し溥儀の決定を翻させるように働きかけるように依頼した他、中華民国内のマスコミも溥儀の動きを憂慮したものの、東陵事件における蒋介石や張学良の反応に失望していた上、清朝の復辟を強く望んでいた溥儀は、これらの中華民国の有力者による反対意見を退け、関東軍の提案を受け入れることとなった。

満洲国執政就任

  • 関東軍は遼寧(当時は奉天省)・吉林・黒竜江省の要人との協議を開始し、1932年2月18日に、後に満洲国の国務院総理となる張景恵を委員長とする東北行政委員会が、蒋介石率いる中華民国政府からの分離独立を宣言し、その後、東北行政委員会の委員を中心に内閣を編成した。なお溥儀は、その後に満洲国の元首に就任することが決定していたにも拘らず、この満洲国建国に至る関東軍との協議に参加できなかったばかりか、協議の概要さえも伝えられることはなかった。
  • 大同元年(1932年)3月1日に、張景恵の公邸で満洲国建国宣言が行われ、満洲国に在住する主な民族による「五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)」を掲げ、新京に首都を置く満洲国が建国され、満洲国の建国を受け溥儀は同年3月9日に満洲国の「執政」に就任した。
  • 溥儀はかつて皇帝であったこともあり、格下である執政への就任を嫌がり、あくまで皇帝への即位を主張するが、関東軍から「時期尚早」として撥ねつけられてしまう。なお、執政となった溥儀は、関東軍の日本人将校から、皇帝へ対する敬称である「陛下」ではなく、執政に対する呼び方である「閣下」と呼ばれ激怒したと伝えられている。
  • 溥儀が執政に就任した直後の3月に、国際連盟から柳条湖事件及び満洲事変と満洲国、および日本と中華民国の調査のために派遣されたイギリスの第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットン率いる、いわゆる「リットン調査団」が満洲国を訪問し、5月には溥儀にも調査の一環として謁見した。この時期、関東軍参謀長だった小磯國昭(後の日本国内閣総理大臣)に対し、「中原への進出を企図して関東軍の支援を求め、達成後は日本に満洲を割譲する」とまで言ったが小磯に諌められている。

皇帝即位

  • 溥儀は1934年3月1日に満洲国皇帝の座に就き、康徳帝(カントー帝)となる。
  • 溥儀の皇帝即位に併せて国名も「満洲帝国」と呼ばれることが多くなった。元号も「康徳」に変更された(満洲国側によって当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更を余儀なくされた)。また同時に、紫禁城時代からの教育掛で満洲国総理内務府大臣でもあり、建国前に溥儀と日本陸軍との間を取り持った鄭孝胥が国務院総理に就任した。
  • 同日に新京市内で行われた皇帝即位式の際に溥儀は、満洲国のスローガンの1つである「五族協和」を掲げる上で、満洲族の民族色を出すことを嫌った関東軍からの強い勧めで満洲国軍の軍服(大総帥服)着用で行われたが、溥儀の強い依頼により、新京市内の順天広場に置かれた特設会場にて、即位式に先立って即位を清朝の先祖に報告する儀式である「告天礼」が行われ、この際に溥儀は満洲族の民族衣装である龍袍を着用した。しかし同時に満洲国政府からは「これは清朝の復辟を意味しない」旨の声明が出されていた。
  • 溥儀の皇宮は、執政当時と同様に満洲国の首都の新京(現在の長春)中心部に置かれた。当初溥儀夫妻は内廷の緝煕楼(しゅうきろう)に住んでいたが、「皇宮とするには狭く威厳が足りない」と考えた満洲国政府により、1938年に新たに同徳殿が皇宮として建てられた。しかし、関東軍による盗聴を恐れて溥儀自身は一度も皇宮として利用しなかった。

傀儡?

  • 関東軍の主導によって作られた満洲国の憲法上では、皇帝は国務院総理を始めとする大臣を任命することができたが、次官以下の官僚に対しては「日満議定書」により、関東軍が日本人を満洲国の官吏に任命、もしくは罷免する権限を持っていたので、関東軍の同意がなければ任免することができなかった。
  • 実際に関東軍の高級将校で「御用掛」である吉岡安直や工藤忠が常に溥儀とともに行動し、その行動や発言に対し「助言」するなど、皇帝の称号こそあるにしろ、事実上関東軍の「傀儡」と言えるような状況であった。
  • 国政に関わるような重要事項の決定には、皇帝の溥儀だけでなく関東軍の認証が必要であり、また満洲国の官職の約半分が日本人で占められ、建国当初は満洲国独自の軍隊や国籍法が存在しないことなど、関東軍の影響力は大きかった。
  • 1937年2月には、溥儀と関東軍の植田謙吉司令官の間で念書が交わされ、「満洲国皇帝に男子が居ない場合、日本の天皇の叡慮によりそれを定める」とされ、実際に溥儀に男子がいなかったことから、事実上溥儀の後継者は日本(関東軍)が定めることとなった。これ以降溥儀は、以前に比べて関東軍による暗殺(と溥儀の暗殺による親日本的な志向を持つ皇帝への交代)を恐れるようになって行ったと言われている。
  • 溥儀は1937年に満洲旗人他他拉氏出身の譚玉齢を側室として迎え祥貴人としたが、譚玉齢は1942年に死去し、溥儀はこの死について「関東軍による毒殺」と疑い、東京裁判においてもそのように証言している。しかし遺族はそれを戦後否定しており、実際に単なる病死であったと証明されている。なお譚玉齢の死後は漢族の李玉琴を側室として迎え福貴人とした。
  • 1940年7月に溥儀が2度目の訪日を行い伊勢神宮を訪れた後には、溥儀の発案で満洲国帝宮内に「建国神廟」が作られ、神体として天照大神が祀られた。なお、満洲国建国に際しても溥儀と一緒に満洲入りし、満洲国の初代国務院総理として溥儀を支えた鄭孝胥は「我が国はいつまでも子供ではない」と、建国後も実権を握る関東軍を批判する発言を行ったことから、溥儀の皇帝即位のわずか1年後の1935年5月に辞任に追い込まれた。
  • このような関東軍が過度に介入する形での満洲国の運営、さらに実権を伴わない形での溥儀の皇帝就任に対しては日本国内からの反発も多かった。一例として、当時の政界に強い影響力を持っていたアジア主義者の巨頭で玄洋社の総帥の頭山満は、満洲国の建国当時からの日本政府と関東軍の過剰な介入に憂慮を示し、1935年に溥儀が来日した際に招待を受けたものの、「気が進まない」との理由でこれを断わっている。

日本皇室との関係

  • 満洲国において関東軍との関係はこの様な状況ではあったものの、日満友好を促進する狙いと、満洲国並びに溥儀の威信を国内外に高めることを目的として、1935年4月に溥儀が昭和天皇の招待により日本を国賓として公式訪問する。
  • 公式訪問時には満州海軍艦は使用せず、日本側が大日本帝国海軍の練習戦艦「比叡」を、御召艦として提供した。
  • さらに両国の深い関係を表すように溥儀が初訪日した際には昭和天皇自らが東京駅まで溥儀を迎えに行くという、日本の歴史上無い異例の歓待を行なった(同様の歓待は現在に至るまで他に行われたことがない)。
  • 溥儀の初の訪日を記念して日本政府は記念切手を4種発行したほか、訪日中は新聞やラジオ、雑誌やニュース映画など日本中のマスコミが溥儀の行動や発言を逐一報道し、いわゆる「追っかけ」も発生するなど、溥儀自身の人柄もあいまって日本の皇室や指導者層のみならず日本国民からも高い人気を集めた。また、皇太后節子は溥儀を「満洲殿」と呼び、我が子のように接した他、多くの皇族が訪日した溥儀を温かく迎えた。
  • 1940年6月に皇紀2600年記念行事が東京で行われた際にも、タイ王国や南京国民政府(汪兆銘政府)などの日本の友好国(なお当時アジアの独立国は日本と満州国の他は、タイ王国と中華民国及び汪兆銘政府の計4国しか存在していなかった。
  • 他は全て欧米諸国の植民地であった)の首脳陣同様に奉祝のために再び訪日し、満洲国から横浜港に到着した際に高松宮宣仁親王の出迎えを受けた後、再度昭和天皇と会見するなど国を挙げての歓待を受けた。なお溥儀は、1935年と1940年の2回の訪日ともに、この頃よりアヘン中毒などいくつかの病気が伝えられた婉容を同伴せず単独で訪日を行った。
  • 当時の溥儀は、年齢が近い(昭和天皇の方が5歳年長)上に自分と同じ君主制国家の国家元首であった昭和天皇の「兄弟分」であるという気持ちが強かったとされている。
  • また、溥儀が初来日から帰国した際には「もし大満洲帝国皇帝に不忠であれば、それは大日本帝国天皇に不忠であり、日本天皇に不忠であれば満洲皇帝に不忠となる」と満洲国政府首脳部に対して訓示を行った他、2度目の訪日の際に伊勢神宮を訪問した際には「日満一神一崇」を表明するなど、大満州帝国皇帝としての自らの地位を強固にする為日本国の皇室との親しい関係を表明していた。

溥傑と嵯峨浩の結婚

  • 1937年には、当時日本の陸軍士官学校を卒業し千葉県に住んでいた溥傑と、嵯峨侯爵家の令嬢で天皇家の親戚(先代侯爵嵯峨公勝の夫人仲子は、明治天皇の生母の中山慶子の実弟、忠光の娘)に当たる嵯峨浩の縁談が関東軍の主導で進められ、1938年2月6日に駐日満洲国大使館の発表で2人の結婚が内定し、同年4月3日に東京の軍人会館(現・九段会館)で挙式が行われ大きな話題を呼んだ。
  • 当初溥儀は嵯峨浩のことを「関東軍のスパイ」かと疑ってかかったものの、その後2人の間に子供が生まれたことや、溥傑と嵯峨浩の関係が良好なことを受けて嵯峨浩に対する警戒を少しづつ解いて行ったと言われている。


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