概要
『ヴィヨンの妻』『走れメロス』『斜陽』に並ぶ太宰の代表作の1つ。
1948年(昭和23年)に雑誌「展望」に、全3話の連載小説として発表された。脱稿は同年5月12日。
背景
本作は連載最終回の掲載直前の6月13日深夜に太宰が自殺したことから、長年の間「遺書」のような小説と考えられてきた。
その為本作は、勢いにまかせて書かれたものと長く信じられてきたが、1998年5月23日に遺族が発見したB5版200字詰めで157枚におよぶ草稿が公開され、これらの草稿では言葉一つひとつが何度も推敲されており、内容を練りに練りフィクションとして創造した苦労の跡が随所に窺える。
そのことから、本作は完全な創作とされる。
その一方で、主人公が名家の三男坊で父親は著名な政治家、女性と心中を図ろうとするなど、ある程度は自分の生い立ちを参考にしたことも考えられる。
尚、太宰の自殺についてだが、一説にはこれは殺人ではないかとも言われていたが、21世紀の法医学的な見地から見た場合、残された資料から自殺したこと自体はほぼ間違いないと言われている。一方で、その自殺理由だが、太宰は過去に何度か自殺騒ぎを起こした後で作品を発表することで作品が売れており、その為の狂言で実際には自殺するつもりはなかったのではないか?とも言われている。
とは言え、事の真偽は不明である。
内容
主人公である大庭葉蔵の手記を読み解くという形で本作は展開される。
作中で大庭葉蔵の手記とされるのは「第一の手記」「第二の手記」「第三の手記」であり、最初の「はしがき」と最後の「あとがき」は、「私」の体験談とされている。
そして肝心の手記の内容であるが、簡単なあらすじを言うと、金持ちの家に生まれた主人公が、上京した後に女と心中未遂を起こし、酒と薬におぼれた末に人間社会から隔離されるという内容である。
「第一の手記」は主に葉蔵の幼少期の頃の回想となっている。
「第二の手記」は中学時代から入水心中を起こすまでの回想となっている。
「第三の手記」は入水自殺を起こしてから、葉蔵の現在までの話となっている。
登場人物
大庭葉蔵
本作における主人公。東北の金満家の末息子として生まれ、画家を志す。
尚、この大庭葉蔵と言う名前の人物は、太宰の初期の作品である『道化の華』にも登場する。
竹一
中学校の同級生。物語の序盤において葉蔵に最も影響を与えた人物。
堀木正雄
葉蔵が通う画塾の生徒。葉蔵よりも年上の遊び人であり、彼との付き合いにより葉蔵は悪い遊びを覚えるようになる。物語後半において葉蔵に最も影響を与えた人物。
ヒラメ(渋田)
古物商。葉蔵の父親の太鼓持ち的な人物。葉蔵が心中騒ぎを起こしたのちに、葉蔵のお目付け役になる。
ツネ子
カフェの女給。作中で描写される限り、葉蔵と関係を持った最初の女性。
周りから孤立していて寂しい雰囲気がある。夫が刑務所にいる。葉蔵と入水心中して死亡する。
シヅ子
雑誌の記者。葉蔵と関係を持った二番目の女性。
葉蔵に漫画の寄稿を勧める。夫とは死別。
シゲ子
シヅ子の娘。葉蔵を「お父ちゃん」と呼び懐く。
ヨシ子
バーの向かいの煙草屋の看板娘。葉蔵と関係を持った三番目の女性。
マダム
京橋のスタンドバーの女主人。行く当てのなくなった葉蔵の面倒を見ることになる。
のちに手記と写真が送られてくる。
「私」
はしがきとあとがきの作者。京橋のスタンドバーのマダムと知り合いで、小説のネタとして手記と大庭葉蔵の3枚の写真を提供される。ちなみに、写真を見た彼による大庭葉蔵の評価を要約すると、見ていてイライラする。人間っぽい感じがしないと、中々に辛辣なものである。
後世への影響
幼少期に関する対人関係への悩みをはじめとして、著者の、ひいては人間の葛藤やココロの歪みが滲み出でくるかのような文章が特徴で、思春期に手を出した人ならば意味が分からなくとも何となくシンパシーを感じた経験があるだろう。
それが高じて、文学や中二病に目覚めた人も多いだろうが、同時に、普段は読書なんてしてないにも関わらず読書感想文なんかで少し背伸びして手を出したら、初ッパナから「恥の多い人生を送ってきました。」で始まり、それ以降陰陰滅滅とした雰囲気で進み、ペルソナの形成、薬物、心中ときて、〆は「人間、失格。もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。」で終わるという、究極の初見殺しを見舞われ、文学になおさら苦手意識をもった者も多いことだろう…。
評価
日本文学において、夏目漱石のこゝろと双璧をなすと言える小説。
日本の文学好きの多くがこの作品に影響を受けることが多く、お笑い芸人兼小説家の又吉直樹も影響を受けたことを公言している。
日本においてはその人気ぶりから度々リバイバルされることが多い作品であり、集英社から発売された文庫版では小畑健がカバーイラストを描いたことでも有名。映画化や映像化も度々されている。
また、夏目漱石のこゝろとは幾つか共通点を持った作品であるが、その最大の共通点と言えるのが歴史の転換点で大ヒットした作品という事。
具体的には、こゝろは明治天皇の崩御を機に発表された作品であり、つまりは明治時代の終わりと大正時代の始まりにヒットした作品である。
一方、人間失格は第二次世界大戦が終結した1945年から三年しか経っていない1948年に発表された作品であり、軍国主義から民主主義への転換期にヒットした作品である。
先述されているようにこゝろと人間失格は、主人公が人間不信であったり、おおよそ三部構成になっていたり、主人公以外にも語り部がいたりと、小説としては数多くの共通点がある。
『時代の移り変わりの中で人間不信が故に振り回される主人公』と言う内容の文学作品が日本において歴代一位と二位を争う人気を得ているという点は、日本と言う国を知る上ではかなり興味深い点である。
その一方で、海外の文学研究者の中には、この作品を男子児童に対する性的虐待の物語ととらえる者も多いようで、この作品を読んだ者の中には「内容が辛すぎて読めない」という者もいる。
また、別の面で言うと、この作品の主人公は境界性パーソナリティ障害と言う精神疾患を患っているとも言われている。