ホンタイジ(皇太子)
1のジュンガル君主のことを載せます。
ジュンガルの歴代君主はモンゴルにおいて副王の意味であったホンタイジ(語源は皇太子)号を採用し.
チベットのダライ・ラマ法王から授与されることで即位とした。 モンゴル族はほぼチベット仏教(ラマ教)を主体としている
ジュンガルがホンタイジ号を使用したことで、ホンタイジの意味は副王からオイラトの盟主を指す意味にもなった。
歴代ホンタイジ/皇太子(ジュンガル帝国君主)
名 | 称号 | 在位 |
---|---|---|
ホトゴチン(ハラフタの子) | バートル・ホンタイジ | 1637年-1653年 |
センゲ(ホトゴチンの子) | ホンタイジ | 1653年-1670年 |
ガルダン(センゲの弟) | ホンタイジ、ボショクト・ハーン | 1671年-1678年※1 |
ツェワンラブダン(センゲの子) | エルデニ・ジョリクト・ホンタイジ | 1694年-1727年 |
ガルダンツェリン(ツェワンラブダンの子) | ホンタイジ | 1727年-1745年 |
ラマダルジャー(ガルダンツェリンの次男) | ホンタイジ | 1750年-1752年 |
ダワチ(ホトゴチンの玄孫) | ホンタイジ | 1752年-1755年 |
※1 1678年-1696年モンゴル皇帝
清朝との戦役
ジュンガル部(オイラート・モンゴル族)からは時々東西モンゴル統一を図る人物が出て、清の西部版図を犯していた 1696年 康煕帝がジュンガル討伐に出て清朝の支配下に置く、乾隆帝の代で完全に清朝に併合される。
滅亡
1755年、清の乾隆帝はこの機に乗じてモンゴル軍団と八旗軍団を動員した大軍をジュンガルに進軍させ、わずか100日でタリム盆地に逃げ込んだダワチを捕獲しジュンガル帝国を滅ぼした、その後は清朝の領土となる