大治2年(1127年)9月11日に鳥羽上皇の第四皇子として生まれたが、皇位継承順位からは外れており、鳥羽院と崇徳帝との確執や藤原氏内部の対立をよそに、気楽な立場で歌や踊りなど遊びまわっていた。
とくに今様を気に入り、研究も重ねた。また、各層身分の人々や友人達を連れて、昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かしたため、挙句歌いすぎて喉が枯れてしまうこともしょっちゅうだった。現代的に言えば、一日中カラオケで歌いすぎて喉痛めた感じ。
要はこんな感じ。↑
しかし、本人の意思とは無関係に親王の即位へとつながった。
いわゆる帝王学を学ばなかったため、新しい時代に柔軟に対応できる天皇となり、平家や源氏と渡り歩くこととなる。