概要
対立の原因となったのは鎌倉幕府二代将軍・源頼家であった。
初代将軍・源頼朝と正室で北条時政の娘・政子の長男として生まれ、頼朝の乳母であった比企尼の養子の比企能員が乳母父、乳母には比企尼の次女である河越尼が選ばれた。このような経緯から比企一族は頼家の後ろ盾になっていた。
正治元年(1199年)1月、頼朝が亡くなり18歳の若さで頼家は「鎌倉殿」の称号を受けるが、征夷大将軍に任じられることはなかった。
頼家は政治的経験がないこともあって、頼朝が信頼した梶原景時や比企能員を重用、地図に一本の線を引いて所領争いの解決を図る、狩りや蹴鞠に熱中したり、御家人の妾を奪ったばかりか、その御家人を殺害しようとするなど、非行が目立ったとされている。
これらのこともあって、正治元年(1199年)4月、幕府は頼家から政治権限を奪ったうえで13人の有力御家人による合議制とする対抗策を取った。
正治元年(1199年)10月、梶原景時に対する弾劾状が66人の御家人から提出され、翌正治2年(1200年)1月20日、鎌倉から追放され上洛途中の梶原景時らを御家人が襲撃、梶原一族は滅亡した。
建仁2年(1202年)、頼家は征夷大将軍宣下を受けるが、後ろ盾の一角であった梶原一族はすでに亡く、妻(長男・一幡の母でもある)の父であり、乳母父でもある能員をたよって北条氏に対する反撃を企てた。
しかし翌3年7月、頼家は急な病に倒れ8月には危篤状態となってしまう。その間に北条氏ら主だった御家人たちにより、
・頼家の将軍職解任
・一幡と頼家の弟・千幡による守護・地頭職の分割相続
が決定される。病床でこれを聞いた頼家は能員に時政追討を指示するが、それを察知した時政も能員をはじめとした比企一族追討を決めた。
9月2日、時政は仏事を理由に能員を自邸に招いて殺害。それを聞きつけた比企一族は一幡の屋敷である小御所に立てこもったが、北条義時を総大将とする軍勢が小御所を攻撃し、一幡や比企一族を攻め滅ぼした。
ただ一幡の死については諸説あり、小御所から脱出したものの11月に義時の家来にとらえられ殺害された(愚管抄)との説がある。
全てが終わった5日に頼家は一命をとりとめたが、もはや抵抗するすべはなく、7日に出家と伊豆修善寺への幽閉が決定された。
翌元久元年(1204年)7月、頼家は同地において北条氏の刺客に襲われ殺害された。