ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

比企の乱の編集履歴

2022-07-31 23:30:35 バージョン

比企の乱

ひきのらん

比企の乱とは、鎌倉時代初期に起きた北条氏と比企一族との権力争いのことを言う。

概要

対立の原因となったのは鎌倉幕府二代将軍・源頼家であった。

初代将軍・源頼朝と正室で北条時政の娘・政子の長男として生まれ、頼朝の乳母であった比企尼の養子の比企能員が乳母父、乳母には比企尼の次女である河越尼(源義経の正室・郷御前の母)が選ばれた。このような経緯から比企一族は頼家の後ろ盾になっていた。


正治元年(1199年)1月、頼朝が亡くなり18歳の若さで頼家は「鎌倉殿」の称号を受けるが、征夷大将軍に任じられることはなかった。

頼家は政治的経験がないこともあって、頼朝が信頼した梶原景時や比企能員を重用、地図に一本の線を引いて所領争いの解決を図る、狩りや蹴鞠に熱中したり、安達盛長の子・景盛の妾を奪ったばかりか、景盛を殺害しようとするなど、非行が目立ったとされている。

これらのこともあって、正治元年(1199年)4月、幕府は頼家から政治権限を奪ったうえで13人の有力御家人による合議制とする対抗策を取った。


正治元年(1199年)10月、景時に対する弾劾状が66人の御家人から提出され、翌正治2年(1200年)1月20日、鎌倉から追放され上洛途中の景時や景時の嫡子・梶原景季らを御家人が襲撃、景時一族は滅亡した。


建仁2年(1202年)、頼家は征夷大将軍宣下を受けるが、後ろ盾の一角であった梶原一族はすでに亡く、妻若狭局(長男・一幡の母でもある)の父であり、乳母父でもある能員をたよって北条氏に対する反撃を企て、翌3年5月、頼家は叔父で弟・千幡(源実朝)の乳母父でもある阿野全成を処刑する。ところが、7月になり頼家は急病に倒れ8月には危篤状態となってしまう。その間に北条氏ら主だった御家人たちにより、

・頼家の将軍職解任

・一幡と頼家の弟・千幡による守護・地頭職の分割相続

が決定される。病床でこれを聞いた頼家は能員に時政追討を指示するが、それを察知した時政も能員をはじめとした比企一族追討を決めた。


9月2日、時政は仏事を理由に能員を自邸に招いて殺害。それを聞きつけた能員の息子の宗朝や時員らは一幡の屋敷である小御所に立てこもった。これに対し北条政子は比企追討を発令。弟・北条義時を総大将とし和田義盛・常盛父子や三浦義村畠山重忠らの軍勢が小御所を攻撃し、比企一族を攻め滅ぼし若狭局と一幡は焼死させられた。

ただ一幡の死については諸説あり、小御所から脱出したものの11月に義時の家来にとらえられ殺害された(愚管抄)との説がある。


全てが終わった5日に頼家は一命をとりとめたが、もはや抵抗するすべはなく、7日に出家と伊豆修善寺への幽閉が決定された。

翌元久元年(1204年)7月、頼家は同地において北条氏の刺客に襲われ殺害された。


関連タグ

鎌倉時代 鎌倉幕府 源頼家 鎌倉殿の13人

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました