生涯
長門守は伊賀の上忍三家の一つ藤林氏の当主。伊賀北部で甲賀に境を接する湯舟郷を支配していたとされる人物。本名は正保、保豊など曖昧である。
甲賀に近い土地柄のため、甲賀側にも多くの配下がおり、伊賀甲賀共々に影響力が強かったとされている。
服部氏の服部半蔵、百地氏の百地丹波(三太夫)と並び「伊賀の三大上忍」と呼ばれる。
ただし、上記の二人とは違い伊賀流の頭目であった事以外は、そのほとんどが謎に包まれている人物。
天正9年(1581年)、第二次天正伊賀の乱においては甲賀忍者とともに、織田氏の手引きをして生き残ったという説もあれば、最後まで抵抗した百地丹波と同一人物説もある。
また、変わり種としては今川義元に仕えていた際、後の武田信玄の軍師・山本勘助から「一流」を伝授されたという記録もあったりする(『冨治林家由緒書』)。
創作物における藤林長門守
前述通り、非常に不明な点が多く謎に包まれている人物である。ある意味人に知られてはいけない忍者としてはその点においては優秀なのだが、その弊害として上記二人から大きく溝を開けられるぐらい"ドマイナー"な人物となってしまった。
そのため、色々な創作物にお声がほとんどかかる事はない…。
岩室長門守に関する小説に僅かに登場する程度。
一応、NARUTOに登場する長門の名前の元ネタとされている。
「騒がしいのう…。忍びは音も無く、匂いも無く、知名も無く、勇名のかけらも無いものだというのに…。」
第345話で初登場。
千鳥の師匠・百地丹波と並ぶ伊賀の実力者であるが、織田信雄の軍勢が攻め寄せた際、自分より丹波の方が戦の指揮に向いているとし、配下を預ける。
頭巾に仮面がトレードマークであり、常に仮面をつけ、外して素顔を晒したかと思えば
それもまた仮面であり、決して人前で素顔を晒さない。
丹波をして「何を考えているのか分からない」「こいつの言うことにはどこか白々しさがある」と言わしめる不気味な存在。