概要(一部ユーザーの考察・解釈等もあり)
ニューヨークからペンシルベニアを結ぶ特急列車の愛称・Keystoneにちなんで名付けられた。
逃げ馬であり、圧倒的なスピードを活かした逃げを打って大きく差を付け、華々しい勝利を飾ることが多かった。
デビュー当時は馬体の小ささや動きのぎこちなさもあって、たいして期待を受けた馬ではなかった。
しかし函館競馬場のレースにおけるデビュー戦において10馬身差を付けて大勝を飾り、以降も破竹の勢いで6連勝を重ねていく。鞍上の山本正司との相性の良さもあってか評価を高めていく
初の敗北の味を知らせたのは、終生のライバルとなるダイコーターであった。これを皮切りに以降は戦績が芳しくなくなり、デビュー当時から共に戦ってきた山本正司騎手を降ろせという指示も出る程だった。
周囲の説得により山本騎乗は継続となり、その後キーストンが復調したこともあり日本ダービーでは再度ダイコーダーを打ち破った。
その後も山本正司とのタッグをメインにレースを続け、生涯戦績25戦18勝という目覚ましい活躍を観客に見せ続けた。
下記の美談と知られる馬であるが、元より人間の心情をなんとなく察することができる馬で、負けて関係者が悔しそうにするとキーストンもその姿を見て落ち込んでいたという。また、山本が自身の騎乗ミスを反省し、キーストンにペースを委ね、実際に「もうそろそろか?」と聞くとキーストンが「まだです」と答えたと勝利インタビューで語られたこともある。
最期と山本正司騎手との絆
しかし1967年12月17日、キーストンは有馬記念ではなく、地元の第15回阪神大賞典(当時は12月施行)に出走。5頭立てという少数レースとなった同レースで、キーストンはいつものように逃げを打った。しかし最終コーナーを回って最後の直線でスパートをかけた途端、事故は起こった。
左前脚を完全脱臼したキーストンは前のめりに転倒。騎手の山本も落馬によって一時期意識を失った。
普通、脱臼した馬なら激痛によりここで大暴れする。当然放っておけばその痛みにもがき苦しみ抜いたうえで衰弱死する。非常に残酷な末路を故障馬に与えず、激痛から解放するため、予後不良として筋弛緩剤による安楽死という形を泣く泣く取るのである。しかしキーストンは残った三本の足でなんとか立ち上がると、後方に落としてしまった騎手の山本にわざわざ近づき、その鼻面を寄せた。
ここで一時意識を取り戻した山本は、キーストンの顔がすぐ近くにあるのに気づき、起こして貰いながら涙ながらに無我夢中でその頭を抱いた。それからスタッフにキーストンのことを任せると、山本は再び意識を失った。
山本が目を覚ますとキーストンは安楽死の措置が執られた後であった。当時のアナウンサーである松本暢章は半分涙声になりながらその情勢を伝えた。当時は今と比べて荒れた観客が多かったという競馬場も、異様な空気に包まれており、痛々しい素振りで山本に近づくキーストンを見た観客が感極まって「もう歩くな!」とこぞって呼びかけていたという。
注射後、競走馬は5分程度で死亡するが、キーストンは心臓が丈夫だったこともあり、15分も生き続け、その間非常におとなしかったという。
山本はこの事故がトラウマとなり、騎手時代はしばらくスランプに陥ったという。さらには交友ある丸目敏栄騎手(アカネテンリュウの主戦としても知られる)が落馬で長期間意識を失うのを目のあたりにしたこともあり、1973年に調教師試験に合格して、37歳で騎手を引退した。
調教師に転身してからはオヤマテスコ(桜花賞)・ハッピープログレス(安田記念)・カネツフルーヴ(帝王賞)・ヘヴンリーロマンス(天皇賞・秋)といった名馬を育て上げるほか、所属騎手では松永幹夫を一流騎手に育て上げた。やがて2006年に定年で調教師を引退した。
その後語ったところによると「キーストンが生きていればその産駒に乗ることを夢見て騎手を続けていたかもしれない」としている。キーストンを失ったことも騎手に対する思いを失わせる出来事だったようである。
また、山本は自身を騎手として有名にしてくれたキーストン以外には思い入れがないとも語り、これといって特徴のない騎手である自分を有名にしてくれたキーストンに非常に感謝しているという。調教師になった後に仕事がくるのもこのキーストンが不幸を背負ってくれたからだと言っていた程である。
キーストンが没した12月17日を命日としてずっと思い続け、後にインタビューされた際は「向こうの世界(あの世)に行ったら真っ先に会いたいのはキーストン。やっと会えたなって言うかな」と答えている。
そして山本はキーストンの死から約49年後、そして競馬界を去って10年後となる2016年12月24日、80歳でこの世を去った。山本の願い通り、あの世でキーストンに再会したのであれば、志半ばで頓挫した夢を再び追っているのかもしれない。