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清水宗治の編集履歴

2022-08-18 23:55:47 バージョン

清水宗治

しみずむねはる

清水宗治とは、小早川隆景傘下の備中国の国衆。主家に当たる毛利家の為に羽柴秀吉と戦い、見事な最期を遂げたことから、武士の鑑と称された。1537~1582。

概要

清水宗治は、1537年に備中国の国衆として産まれる。前半生は不明な点が多いが、時期は不明ながら毛利元就の三男小早川隆景傘下になった。


1582年、織田信長が派遣した羽柴秀吉を総大将とする中国方面軍が3万が備中に攻め込んで来ると、宗治は手勢5千で居城の備中高松城で迎え撃つ。

初戦は城の周りに広がる湿地帯を利用して、羽柴軍を苦しめるも、城が窪地の中にあるという地形を黒田官兵衛に逆手に取られて大規模な水攻めに逢う。城は10日も立たない内に人工の湖の中に孤立し、梅雨の長雨もあって徐々に水没してしまう。毛利家は宗治を助けるべく、吉川元春と隆景を派遣するも羽柴方の監視が厳しく城に近づけず、また兵力差も大きく合戦をして羽柴方を破ることも厳しく、安国寺恵瓊を通して、秀吉との早期和睦を試みるも到底毛利家には呑めない条件を出してくる。




…が、秀吉の元にある密書が届いたことで事態は急変する。

明智惟任の謀反で信長死す

秀吉は毛利家に信長の死を知られないうちに、畿内に戻り明智光秀を討つことを決断する。秀吉は和睦の条件を緩和し、内密に宗治に接触、宗治は城兵の助命を条件に自らの死を選ぶ。

湖と化した高松城外に一艘の小舟に乗って現れた宗治は「誓願寺」という舞を美しく舞った後、

『浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して』

の辞世の句を読み上げ、切腹した。享年46。

宗治は自らの死を以て多くの命を救い、歴史を大きく変えたのである。

その見事な最期は秀吉も「武士の鑑」と称賛し、切腹の作法・思想にまで影響を与えたといわれる。

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