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頼山陽の編集履歴

2012-06-10 18:19:27 バージョン

頼山陽

らいさんよう

江戸後期の儒学者・歴史家・漢詩人。名は襄、字は子成。山陽と号した。別号は三十六峰外史。

安永9年(西暦1780年)~天保3年(1832年)


大阪の生まれ。

父・頼春水が安芸の藩儒となり、広島に育つ。

はじめ叔父の頼杏坪に学び、18歳の時、江戸に出て尾藤二洲に学ぶ。

21歳の時、出奔してとがめられ、自宅に三年間監禁された。

その後、備後で菅茶山に師事し、その塾の塾頭となった。


京都に書斎・山紫水明処を営み、門生に教え、文人と交わった。

とくに梁川星巌大塩中斎と親交が深かった。

36歳の時、江馬細香と出会い、終生、師弟としての交流を持つ。


48歳で『日本外史』を、老中松平定信に献上。

ほどなくして出版されると好評を博し、幕末尊皇攘夷運動にも影響を与えた。

他に『日本政記』『日本楽府』や自選の詩集『山陽詩鈔』などがある。


頼山陽は修史(歴史の編修)をライフワークとしていただけに、漢詩も「不識庵 機山を撃つの図に題す」―文化9年(西暦1812年)、作者33歳の時、川中島の合戦の様子を描いた画に記した、「鞭声 粛粛 夜 河を渡る……」に始まる作品で、歴史を詠じた詩のなかの傑作と称せられ、詩吟剣舞でも馴染み深い名作―のような詠史詩が名作として知られるが、「天草洋に泊す」(山陽の詩の中でもひときわ人口に膾炙した作品で、「雲か山か 呉か越か……」に始まる)や「阿嵎嶺」のような壮大な景観を描き出した作品、母や愛人たちに示した情の深い作品にも優れたものが多い。

平易かつ壮大な詩を詠んだ頼山陽は、漢詩文の中で日本風の味わいを表現した代表的な存在と言えよう。


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