概要
人間は生まれてくるべきではないという考え方。アンチナタリズムやエフィリズムとも呼ばれ、生命の誕生に対するアンチテーゼである。
出生自体が親のエゴイズムによるもので、生まれた側が望んだものではない。
生まれた側にはなし崩し的に生きる義務が生じ、そこには様々な困難や苦痛が伴う。
生まれながら貧しかったり病気の人は言わずもがな、たとえどんな有能で幸福な人物でも必ず死んでしまうし、老いや病気や事故には勝てない。愛する者やペットとの死別も避けられない。むしろ途中まで幸せだったのにいきなり不幸に遭えば、その苦しみはさらに増大される(いわゆる天人五衰)。
であれば、積極的に生命を誕生させるべきではない。
とはいえ、自殺は反道徳的である他、反出生主義の目的である苦痛の削除とは相容れないとして、概して否定的である。これから生まれてくる命をなくして苦痛の発生を防ぎ、すでに生まれてしまった者の苦痛もなるべく減らそう
というのが言い分である。
おおまかにはこのような思想であるが、人によって定義は異なる。
他には、性悪説に則り、人間は本質的に悪という前提で出生を否定する者もいる。親ガチャに外れたと感じる者が、自身の生まれを呪い反出生主義を唱えることもある。親や子の不幸ではなく、人口過剰問題や環境破壊問題などの解決のために出生を否定する者もいる。また、人間だけでなく、生きるために他の存在を傷つけたり殺すことを避けられない動植物全てが生まれるべきでなかった、と考える者もいる(光合成によって栄養を補給できる植物であっても他の植物との生存競争に晒される場合がある)。
ある意味では、人類の思想の必然的通過点ともいえる。
似たような発想は遥か昔からあり、グノーシス主義や仏教の一部、ペルシャの詩『ルバイヤート』にもみられる。仏教における究極の目標の一つとされる輪廻転生からの解脱も、類似した思想が根底にあると言えよう。
しかしながらお前がそう思うんならそうなんだろう、それあなたの感想ですよねと言われたら終わる程度の主観的思想であり、今を幸せに生きていられる人や子供の出産を待ち望んでいる人に対してこの考えを突きつけるのは立派な脅迫恐喝である。
自分の命の価値を決めるのは結局自分自身しかいないが、自分の命が無価値だからと言って他人を巻き込む道理は無い。「私は産まれてこなかった方が良かった」「産むのは親のエゴ」という結論は産まれて生きて色々経験できたからこそ辿り着いた理屈であり、これ自体立派なエゴイズムと言える。生まれる前から「お前は産まれてこなかった方が良かった」などと勝手に断定して宣告するのはそれ以上に残酷なエゴイズムである。
その子はアナタと別の道を歩めるかも知れない、死に対する恐怖や絶望を克服できるメンタリティを得るかも知れない。その子の命の価値を決めるのはその子自身であり、アナタではない。