少女の春の夢
春が来れば、きっと花が咲く。
それが誰の為かは分からない。
私の為かもしれないし、
貴方の為かもしれない。
どうか、もしもよければ、
貴方さえよければ、思い出して欲しい。
綺麗な香りのする菊を、桜を咲かせた私を。
息つく間もなく走り抜け、行きつく場もなく散っていく。
儚いけれど、決して「可哀想」なんかじゃないの。
私が生きた、とびきり綺麗で美しいしるしを、
どうか貴方に見せたいの。
貴方達に見せたいの。
春の来るたび何度でも、きっと私は生きて征く。
「ブラウニー」
どうか、貴方もお元気で。
プロフィール
名前の通りチョコレートの様な黒鹿毛を持っていたとされる戦後間もない日本の馬。戦後の情勢に振り回され非業の死を遂げたヒサトモの様に、彼女もまた発展途上の時代が原因で命を落とす事になった薄命の名牝だった。
血統
父父トウルヌソルは戦前の名種牡馬で、あのクリフジの父でもある。そして父母の星谷はあの下総御料牧場の基礎輸入牝馬の内の一頭であり、星旗や星友等に負けず劣らずの産駒成績を誇っている超一流の名牝である。
そんなブラウニーは、とある名馬とも血の繋がりがあるのだ。
その馬こそサニーブライアン。「これはもう、フロックでもなんでもない!二冠達成
!」の名実況で有名な二冠馬なのだが、彼の六代母がブラウニーの祖母である星谷に該当する。立場としてはサニーブライアンの四代母ツキカワの位置にあたる。
そして、六代の血統を見てみると、もう一つ星の名の付く牝馬がいる。その牝馬こそあの戦前の偉大な名牝ヒサトモの母である「星友」である。ブラウニーはクリフジ、ヒサトモ、サニーブライアンなど世代を風靡した名馬たちとも繋がりがあるのだ。
...日本ダービーのあの日。ただ1着だけを目指して懸命に走る彼を、もしかしたらヒサトモと一緒に背中を押してくれていたのかもしれない。
そのサニーブライアンが出走する事すら叶わなかった菊花賞で勝ったのが彼女なのだが..まあ...
デビュー
仕上がりは特に遅れる事なく1947年、デビュー。初陣は2着、その次もまた2着と惜敗が続いたものの、3戦目にして初勝利を飾った。その差なんと8馬身。彼女の高い素質の片鱗が見えたレースだった。続く4戦目でも見事勝利を収め、彼女はクラシックである桜花賞を目指す事になった。
だが桜花賞前での前哨戦では4着に敗れ、2番人気に甘んじる。
...だが、彼女は後続を2馬身離す華麗な走りで見事クラシック勝利を収めた。そしてここまでの一連の流れはなんとたった2ヶ月の間の事であった。
彼女の競走人生ももう半分に差し掛かっており、そしてそれと同時に人生の幕引きへと近づきつつあった。
続く4歳の混合合戦では11着と大敗。しかし東京優駿競走(現在の日本ダービー)ではマツミドリの3着と好走する。因みに、この時2着入線であったトキツカゼはこの年の皐月賞牝馬であり、後にブラウニーが菊花賞に出走したため出なかったオークスで勝利を収め、同じ日に二冠牝馬(トキツカゼの場合は皐月賞をとっている為定義上は変則二冠馬)が誕生するという最初で最後の偉業が成されている。
それから4ヶ月の休養をとり、混合合戦にして再始動。61kgという重い斤量をものともせず勝利を収め、続く牝馬特別でも勝利した。
そして近づく菊花賞。一度大敗を喫しているものの、それでも善戦し、クリフジ以来の菊花賞牝馬であり、そして二冠に王手を指していた彼女は、堂々の1番人気に支持された。
迎えた本番。彼女は鬼神の如き走りで見事勝利。これにより史上初の桜花賞と菊花賞での二冠牝馬、そして史上2頭目の菊花賞牝馬と二冠牝馬が誕生したのだった。
...だが、たった半年の間でこれ程までの激戦を経験して流石に彼女も燃え尽きてしまったのか、それからの5戦では3戦掲示板内に入って健闘自体はしていたものの、あまり力を出せず、運営陣も無理をして体を壊す前に引退させた方がいいと判断。12月4日に行われた牡馬牝馬混合合戦で12着を最後に引退した。
そしてこのままならば順当に繁殖入りをする筈だったが、年を越して1948年5月20日。腸炎により彼女はこの世を去った。享年4歳。
当時の衛生観念や医療技術の未発達さ等も含めれば、どうしようもなかったとしか言い様がないのである。
彼女は酷使されたせいで怪我をし亡くなった訳でも、ただただ稼ぐ為だけに動かされ過労死したという訳でも無く、ただただ生まれた時代が悪かった。...そうとしか言えないし、言ってはいけないのである。
彼女を世話していた人達や応援していた人達の悲しみは莫大なものであろう。それに加え、誰も悪く無いからこそ誰かを叩いてその悲しみの鬱憤を晴らす事さえできず、ただただ行き場のない悲しみや怒り、悔しさがあったのだろう。
それに加え、菊花賞牝馬という唯一無二の存在が子孫を残せず亡くなっていったというのは、競馬界においても極めて大きな損失だったと伺える。
彼女の競走馬としての人生は僅か1年。引退後や現役中よりも、幼駒であった期間の方が長いという珍しく、そして切ない馬だった。
あっという間に現れ、一世を風靡し、あっという間に伝説と爪痕を残し、あっという間にこの世界から去って行った名馬「ブラウニー」。例えどれだけ彼女の存在が埋もれようが、彼女生きた事実は、あの日伝説が誕生した事も、息つく間もなく世界中の名馬たちと競走しに天国へ旅立っていた事も、全てこれからも彼女の意思と一緒に永遠に刻まれ続けていくだろう。
桜の花の香りがすれば 菊の咲くたび何度でも きっと貴女を思い出す。
余談*
同じく菊花賞牝馬であるクリフジとは中々対照的な部分があった。
・クリフジは二冠牝馬となるヤマイチや元祖シルバーコレクターことホマレモン等を産んだが、ブラウニーは子供を一頭も産まずに旅立った。
・クリフジは24歳と当時としても今としても大往生しているが、ブラウニーは引退から5ヶ月後に急死している。
・クリフジは生涯負けなしで大抵が圧勝だったが、ブラウニーは普通に健闘しているものの、桜花賞後にいきなり11着をとったりその後ダービーで3着に入ったりするなど掴みどころのない戦績だった。
・ブラウニーは騎手の乗り変わりが激しく、16戦のうち6人騎手が乗り替わっている。一番多く彼女に騎乗したのはあの戦火に消えた名馬・カイソウにも騎乗経験のある橋本輝雄騎手。一方のクリフジは吹雪に消えた天才騎手・前田長吉が全て騎乗を勤めている。
ブラウニーはオークスか菊花賞どっちかを選択しなければならなかったのでどう頑張っても当時三冠牝馬になる事は出来なかったのだが、クリフジの娘であるヤマイチは桜花賞とオークスを制し、菊花賞では3着と惜敗し、史上最も三冠に近づいた名牝である。...ヤマイチが3着に終わったあの菊花賞。もしかしたらブラウニーの菊花賞を目撃し、ブラウニーの叶わなかった三冠牝馬になる事を願っていた人もいるのかもしれない。
ブラウニーの亡くなった時期は受胎する時期の少し後である為、もしかしたら一度妊娠し免疫力が弱っている時に合併症を発症しそのまま持ち直せず亡くなってしまった可能性がある。
なんにせよ、天国では病気や怪我を気にせずかつてレースで戦ったライバル達と幸せに暮らしていて欲しいものである。