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勧修寺晴豊の編集履歴

2023-10-04 21:24:47 バージョン

勧修寺晴豊

かじゅうじはるとよ

勧修寺晴豊とは安土桃山時代の公卿。

概要

勧修寺晴秀の子、官位は従一位、准大臣


プロフィール

時代安土桃山時代
生誕天文13年2月24日(1544年3月17日
死没慶長7年12月8日(1603年1月19日
官位従一位、准大臣
主君後奈良天皇正親町天皇後陽成天皇
氏族勧修寺家
父母父:勧修寺晴秀、母:粟屋元子
兄弟晴豊晴子充房、日袖、正親町三条公仲
土御門有脩の娘
光豊経遠、伊達行源、俊昌致康重清、鳳林承章、佐久間安政室

経歴

天文14年(1545年)に従五位下、弁官(右少弁、左少弁、右中弁)と蔵人頭となり元亀2年(1572年)に参議となる。従三位、権中納言となり後に武家伝奏、天正10年(1582年)に権大納言に就任、慶長6年(1601年)に准大臣に就任した。慶長7年(1602年)に死去、死後内大臣が贈られた。


人物

織田信長豊臣秀吉と関わりが深く信長の石山合戦では本願寺と和平交渉を行ったという。


外部リンク

勧修寺晴豊 - Wikipedia


関連タグ

公家 安土桃山時代 勧修寺家

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