第11代天皇。
3世紀後半に活躍されたと考えられる天皇で、当時は「天皇」ではなく「大王」と呼ばれたとされる。
幼いときからしっかりとしていて立派なお方で、壮年になると、並外れて度量が大きくなられた。
天性に従ってものごとを行い、歪めたり飾ったりされなかったという。
垂仁天皇2年、狭穂姫命を皇后とし、都を纏向の珠城宮に遷された。
纏向は現在の奈良県桜井市の北部であり、三輪山の西北麓にあたる。
天皇は父帝である崇神天皇同様、天神地祇を祀ることを怠りにならなかった。
垂仁天皇25年には、皇女の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に天照大神を伊勢に祀らせる準備をさせた。
これが後の伊勢神宮の創祀となり、彼女が最初の伊勢斎王だったといわれる。
天皇はまた、崇神天皇の政策を踏襲して諸国に池や溝をたくさん開かせ、それにより農民は豊かになり、天下は太平になった。
こうした善政の他にも、垂仁天皇28年、天皇は「古えの風習といえども良くないことには従わなくてもよい」と仰って、以後の殉死を廃止させた。
その後、垂仁天皇32年に皇后の日葉酢媛命が薨去すると、野見宿彌(日本の相撲の元祖といわれる)が土偶をつくり、殉死する人の代わりにしたのが、埴輪の起源といわれる。
垂仁天皇の時代は海外との交流も活発に行われ、崇神天皇の時代に来朝した任那の王子・蘇那曷叱智(ソナカシラ)が帰国した。
また、新羅の王子・天日槍(アメノヒホコ)が来朝した。
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