沖縄本土決戦
太平洋戦争において硫黄島の戦いに続き発生した日本本土での陸戦(※1)となったのが沖縄戦である。日本における史上最大の陸上戦で、住民すべてが避難できた硫黄島とは異なり戦いに巻き込まれた住民にも大勢の死者を出した。
また、日米双方で現地最高指揮官の死者(※2)を出した数少ない戦いでもある。
※1:沖縄戦は「第二次世界大戦における日本唯一の陸上戦」といわれることがあるが、アメリカ軍に対する防衛戦として他に硫黄島の戦い、ソ連に対しての防衛戦として樺太防衛戦・占守島の戦いが行われたため正確な言い方ではない。
※2:1945年6月18日に米軍の現地最高指揮官である第10軍司令官バックナー陸軍中将が前線の視察中に日本軍の砲撃により戦死、1945年6月23日には日本軍の現地最高指揮官である牛島陸軍中将が自決により死亡している。米軍ではガイガー海兵隊中将を経てスティルウェル陸軍大将が第10軍の指揮権を引き継いだ。
概要
地上戦の始まる前、昭和19年8月22日には沖縄から長崎へ疎開する学童を乗せた貨物船対馬丸が撃沈され、同年10月10日には那覇市を中心に南西諸島全域が大空襲に見舞われた。
地上戦に限定すれば昭和20年3月26日にアメリカ軍が慶良間諸島に上陸したことで始まり、4月1日には沖縄本島に上陸、日本軍の組織的な抵抗は6月20日ないし6月23日に終了した。
アメリカ軍の目的は日本本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であった。
日本軍の目的は、大本営海軍部がアメリカ軍に大打撃を与えて戦争継続を断念させる決戦を志向したのに対し、大本営陸軍部は本土決戦準備の為の時間稼ぎとし、それを受けた現地の第32軍司令部は本土決戦に向けた時間稼ぎの(持久戦)を意図するも、その方針とは相反する北・中飛行場の確保も重視せよという命令も受ける戦略構想が不統一な状況であった。
第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を基本方針として戦い、特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となった。海上では大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦「大和」などの日本海軍残存艦隊と連合軍艦隊の間で海戦が行われたほか、飛行場制圧のため陸軍空挺部隊から抽出されたコマンド部隊・義烈空挺隊も投入した反撃が試みられた。上陸後2ヶ月経った昭和20年5月末に連合軍は首里を占領し、日本軍は南部に後退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、掃討戦は終戦まで続いた。南西諸島の日本軍が降伏文書に調印したのは、昭和20年9月7日のことであった。
陸海空において日米の大兵力が投入され、両軍最高指揮官が戦死するなど第二次世界大戦における最激戦地のひとつとなった。使用された銃弾・砲弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された。
また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄県では「鉄の雨」や「鉄の暴風(英:Typhoon of Steel)」などと呼ぶ。残された不発弾の処理は、陸上自衛隊第101不発弾処理隊と海上自衛隊沖縄基地隊の手により、現在も継続中である。
沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる。その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の昭和51年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は12,520人で、負傷者72,012人であった。このほか、朝鮮半島出身の土木作業員や慰安婦など1万人以上が統計から漏れているとの見方もある。
なお、地上戦域外での病死者や餓死者、県外疎開中の死者等を加算した沖縄県出身の死者数は15万人以上と推定されている。(住民被害の詳細は#住民犠牲についてを参照)沖縄戦の最大の特徴としては、正規軍人よりもそれ以外の人々(現地収集の防衛隊や学徒隊および一般住民)のほうが死者数が多いということがある。
背景
日本軍の戦略
アメリカ軍の沖縄上陸作戦計画図
昭和19年に入りトラック島空襲などアメリカ軍の太平洋正面での反攻が本格化してくると、マリアナ諸島などを前線とする絶対国防圏での決戦を構想していた当時の日本軍は、後方拠点として南西諸島の防備に着手した。
昭和19年2月に日本陸軍は沖縄防衛を担当する第32軍を編成、司令官には渡辺正夫中将が任命された。もっとも、この時点での第32軍の主任務は飛行場建設であり、奇襲に備えた警備程度の兵力であった。同年4月には、海軍も沖縄方面根拠地隊を置いたが、その司令官は九州・沖縄間のシーレーン防衛を任務とする第4海上護衛隊司令官を兼務し、防衛戦力というより後方組織としての性格が強かった。
日本軍が本格的に沖縄地上戦の準備に取り組んだきっかけは、昭和19年7月に絶対国防圏の要であるサイパン島が陥落したことであった。
大本営は、捷二号作戦を立案して沖縄周辺海上での航空決戦を企図するとともに、陸上の第32軍の増強にも着手、本土や台湾への民間人疎開も開始した。
沖縄本島に3個師団(甲編成は7,000~9,000人、乙編成は6,000人程度)・1個旅団(4,000人程度)を置いたほか、宮古島などにも1個師団・4個旅団が展開した。軍首脳部の人事も一新して新司令官には牛島満中将を任命、砲兵を統括する第5砲兵司令部も置かれ、その司令官には砲兵の権威だった和田孝助中将が充てられた。第32軍は敵上陸時に主力を機動させての決戦を目論見、砲兵部隊に援護された精鋭3個師団で水際からアメリカ軍を追い落とせると自信を深めた。ただ、増援の独立混成第44旅団が乗った軍隊輸送船「富山丸」がアメリカ潜水艦に撃沈され、4000人近くが死亡、到達したのは約600人という、先行きを不安視させる事件も起きた。
昭和19年10月にレイテ島の戦いが起きると、状況は変わった。
11月13日、大本営および第10方面軍司令部は、レイテに転用された台湾駐留部隊の穴埋めのため、第32軍の反対を押し切って沖縄から1個師団を抽出することを決めた。
その結果、苦衷の末、第32軍は最も練度が高いながらも機動性はあるが火力は野砲より低い山砲装備であった第9師団を転出させる事とし、昭和19年12月中旬から翌20年1月中旬にかけて台湾へ移動となり、第32軍は兵力の三分の一近くを失った。大本営は、昭和20年1月22日に補充のため第84師団の沖縄派遣を内示したが、宮崎周一作戦部長の判断で翌日には撤回した。こうした経緯から第32軍は大本営に不信感を抱き、その後の作戦に支障をきたした。他方、大本営の戦略的見地から見ると、当時の状況からは台湾を経由しての中国南部上陸も予想されており、台湾の喪失はひいては南方との考えうる唯一の補給線にも影響するため、台湾の防衛も重要だった。また、補充部隊を送るにも海上輸送中に消耗する危険が大きく、本土決戦用に温存すべきとの見解も強かった。
第9師団の抽出を受けて、第32軍は昭和19年11月に作戦方針を大転換し、機動決戦を断念して本島南部での持久戦を行うことにした。本島中部に配置されていた第24師団を南部に移動し、北部・中部の飛行場は小部隊による遅滞防御と砲撃による利用妨害程度にとどめることを決めた。
昭和20年1月下旬には南部にさらに戦力を集中させている。一方、大本営海軍部は*天一号作戦*を定めて、沖縄へ来攻するアメリカ軍を航空戦力主体で迎撃して大打撃を与え、終戦に持ち込もうとする全く異なった戦略を考えていた。そのため、大本営は飛行場確保を重視して第32軍に作戦変更を要求したが、第32軍は応じないままアメリカ軍を迎えることになった。
なお、海軍は硫黄島でも飛行機の当てが無いのに飛行場建設を強硬に要求し、これに資材や人員を取られて現地軍の地下陣地構築の妨げになるという失敗をしでかしている。
なお、南部での持久戦構想を固めた第32軍は、昭和20年に入って沖縄上陸が必至の情勢となった時点で、島内に残っている老幼婦女子を非戦闘地域と予定した北部山岳地帯へ半強制的に疎開させようとした。その目的は、非戦闘員が戦闘の支障にならないようにすることと、民間人を巻き込んだ玉砕を防ぐことにあった。多くの人々はわずかな食糧と身のまわりの品を持って避難をしたが、それでも激戦地となるであろう中南部には数十万人の住民が避難せず踏みとどまっていた。これは、台湾沖航空戦における「大勝利」の誤報による影響が大きいとされる。
沖縄戦の経過
1944年 | 7月 | サイパン陥落 |
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8月22日 | 沖縄から長崎へ向けて航行していた疎開船団のうち、対馬丸が撃沈 | |
10月10日 | 那覇市を中心に大空襲(10・10空襲) | |
1945年 | 3月26日 | アメリカ軍が慶良間諸島に上陸 |
4月1日 | アメリカ軍が沖縄本島に上陸 | |
6月23日 | 日本軍の組織的な抵抗が終了するも、各地で戦闘が続く | |
6月26日 | アメリカ軍が久米島に上陸 | |
8月15日 | ポツダム宣言受諾 | |
9月2日 | 日本が降伏文書に調印 | |
9月7日 | 南西諸島の日本軍が降伏文書に調印、沖縄戦が正式に終結 |
地域別の状況
沖縄本島
昭和20年4月1日に中部西海岸からアメリカ軍が上陸、島を南北に分断する形で侵攻し、独立混成第44旅団の1個大隊規模しかいない日本軍を相手にした第6海兵隊師団を主力とするアメリカ軍は22日までにはそのまま北部を制圧した。
また第77歩兵師団は沖縄本島北西の伊江島にレーダーサイトと飛行場建設の為に16日に上陸し、21日までに制圧した。
日本軍主力の篭る南部では4月5日から首里の防衛ラインで沖縄戦中最も激しい戦闘が繰り広げられ、日米双方に多大な損害が出た。
第32軍参謀八原博通大佐主導のこの陣地に篭っての守備に徹した持久戦戦法はアメリカ側を大いに梃子摺らせ、また今までの島々での戦いとは違い、沖縄で初めて組織的で大規模な日本軍の砲撃を受けた事も兵士達に大きなショックを与えたという。
この膠着状態の中で第32軍では首里防衛戦線より南方が兵力不足によりがら空き状態である事から、この方面に上陸されて後背を突かれての戦線崩壊を怖れており、現にアメリカ海軍側からも第2海兵師団を用いての上陸提案があったがバッグナー司令官は南方の海岸は断崖に囲まれ上陸に不適とし、弾薬不足から弾薬を海兵隊に回す事にも乗り気でなく、堅実な正面攻撃に拘ったという。
4月末までに西に第27歩兵師団、中央に第96歩兵師団、東に第7歩兵師団という布陣で沖縄攻略を進めるアメリカ第24軍団は24日に嘉数高地、26日には城間北部高地を漸く占領したものの、前田高地は依然落とせない状態であり、アメリカ軍は大損害を受けた第27歩兵師団、第96歩兵師団を前者は第77歩兵師団、後者は第1海兵隊と交代させ、新たに第6海兵師団も投入していた。
対して日本側でも矢面に立つ第62師団の損失ペースが予想を上回る激戦であり、第24師団も投入せざるを得ない状況であり、ジリ貧状態に陥る焦燥を覚えた第32軍参謀長長勇中将主導の一大反攻作戦に繫がったとも言う。
しかし5月3日の夜から始まったその攻勢は4日の夜までには失敗したことが明らかになり、牛島司令官は残された唯一の予備である独立混成第44旅団を投入しての攻勢続行を諦め、5日に作戦を終了させた。
この攻勢で今まで大部分は予備として健在であった第24師団が壊滅状態となり、更には砲兵の弾薬大半を消費する事となった事で首里防衛ラインでの日本軍の抵抗を急速に衰えさせる結果となり、6日には前田高地も陥落している。
11日にアメリカ軍の攻勢が再開され、13日に第96歩兵師団、第763戦車大隊が首里東方の第24師団が守る運玉森を、19日には第6海兵師団が首里西方の独立混成第44旅団が守る安里52高地を占領し、これにより首里の側面が剥き出しとなり、両翼から包囲される危険が生じた第32軍は折からの豪雨にも助けられ後退し、30日には司令部を南部の糸満市摩文仁に移し、もはや掃討戦に過ぎないと楽観していたバッグナー司令官の目論見に反して猶も組織的な抵抗を続けた。
6月23日、既に組織的抵抗が不可能となりつつあった第32軍では司令部で牛島中将と長参謀長が自決して組織的抵抗は終結した。
南部には県外に疎開しなかった多数の一般住民が避難しており、日本軍の南部撤退が住民の被害を大きくしたとする見解もある。
慶良間諸島
沖縄本島での戦闘が始まる前、昭和20年3月26日にアメリカ軍の第77歩兵師団が輸送船の停泊地の確保などの為に阿嘉島と座間味島に上陸、翌27日には渡嘉敷島に上陸した。慶良間諸島では住民の集団自決が発生した。
久米島
沖縄本島での日本軍の組織的な抵抗が終了した後、昭和20年6月26日にアメリカ軍が上陸した。大規模な戦闘は発生しないままにアメリカ軍は占領を完了した。久米島での戦闘においては味方であるはずの日本軍による住民虐殺が行われ22人が犠牲になった。この住民虐殺についてはポツダム宣言を受諾した8月15日以後も行われていた。当時久米島を守備していた日本軍の隊長は戦後の取材でこの事件について認めており、また、この事件に関しては、「少しも弁明はしません。私は日本軍人として、最高指揮官として、当時の処置に間違いがあったとは、ぜんぜん思っていないからです。それが現在になって、法的に、人道的に悪いといわれても、それは時代の流れとして仕方がない。いまは、戦争も罪悪視する平和時代だから、あれも犯罪と思われるかもしらんが、ワシは悪いことをしたと考えていないから、良心の呵責もない。ワシは日本軍人としての誇りを持っていますよ。」と述べている。
先島諸島
宮古島や石垣島などの先島諸島では、アメリカ軍は上陸せず、地上戦は行われなかったが、イギリス艦隊による艦砲射撃が猛威を振るった。また住民はマラリア発生地へ強制疎開させられたため、戦闘よりもマラリアで命を落とす住民が数多く発生した。
沖縄戦終結・米軍統治下の時代から本土復帰まで
太平洋戦争終結後、日本は連合国の占領下におかれたが、サンフランシスコ講和条約で独立を回復した。しかし、琉球列島は小笠原諸島と共に日本の施政下から切り離されることとなる。琉球列島のうち、奄美群島は1953年に本土復帰、また小笠原諸島は1968年に本土復帰を果たす。
沖縄戦終結直後の沖縄は焦土と化した状態で、社会インフラはことごとく破壊された。沖縄戦を生き残った人たちは自らのことを「艦砲ぬくえぬくさー(艦砲の喰い残し、つまり自分たち以外は全て破壊されてしまったという意味)」と呼んだ。