英観2年(984年)に花山天皇が即位するが、翌寛和元年(985年)天皇に仕えていた・女御・藤原忯子が死去、天皇は退位をして出家を考えていた。右大臣・藤原兼家は娘・詮子と円融上皇の皇子・懐仁親王の擁立を望み、兼家の子・道兼は天皇に出家を促した。
寛和2年(986年)に道兼は天皇を内裏から元慶寺まで連れて行き天皇を出家させ自身も出家することを伝えた。しかし道兼は出家せず天皇を寺に残しそのまま戻らなかった。天皇の側近であった藤原義懐も天皇の出家に従い出家、関白・藤原頼忠も事実上実権を失った、天皇の出家後、孫にあたる懐仁親王(一条天皇)を即位させ、兼家は摂政となり実権を握った。