ローマ皇帝
ろーまこうてい
インペラートル
『尊厳なるカエサル家のローマ軍最高司令権限保持者、第一人者・執政権限保持・護民職権・皇帝属州総督・国家最高司祭』
のちに欧州の帝王観念となるローマ国家の絶対的権力者の通称、中国の皇帝とは違う
この「役職」自体は紀元前27年を境に存在し、1453年の通称『ビザンツ皇帝』が戦死するまで存在したことになっている。
ローマ元首は君主であってはならないのであるが、テオドシウス大帝以前まではローマ神として崇拝されることは許可されていたのである
絶対君主的ローマ元首としては『ディオクレアヌス元首』から『皇帝化』してゆき、『バシレイオス2世』の頃が『絶頂期』を迎たことになる。
名目上のローマ皇帝
本来の意味を離れ君主としての称号と化してしまってはいたが、ローマ皇帝の称号の偉大さを示すかのようにビザンツ帝国が滅亡した1453年以後も「ローマ皇帝」は存在し続けた。
神聖ローマ帝国
800年にフランク王国のカール大帝が教皇の下でローマ皇帝に即位し東ローマ帝国の支配から名実共に脱した。その後しばらく空位が続いたもののオットー1世が神聖ローマ帝国と呼ばれる国家と密接に関係する形で「ローマ皇帝」に即位する。以後神聖ローマ帝国は順当に弱体化を続け、しばしば空位の時期をはさむも神聖ローマ皇帝の称号は(実態はドイツ王とでも言うべき程度であったが)フランツ2世がナポレオン戦争での敗戦を受けて帝国を再編しオーストリア皇帝に即位するにあたって1806年に放棄するまで継承された。
オスマン帝国
コンスタンティノープルを陥落したオスマン帝国スルタンメフメト2世は以後スルタンはビザンツ帝国の皇帝を兼任するものと解釈していたため、「ルーム・カエサリ」すなわちトルコ語でローマ皇帝を名乗った(名目ばかりでなく実際にコンスタンティノープルの教会の任命やギリシャ・ローマ文化の保護といったローマ皇帝としての事業も継承している)。その後も全てのスルタンではないものの、この考えを継承したスレイマン1世などがこの称号を用いた。
ロシア帝国
オスマン帝国と同じくビザンツ帝国の継承者を自認していた(主に血統により)ロシア帝国ではしばしば君主が「ローマ皇帝」を自称していた。しかし当時ロシアの国力が小さかったことも災いして広くは認められてはいなかった。後にロシアの君主が皇帝と認められるようになったものの、その頃にはすでにローマ帝国を継承する皇帝というよりロシア国民の皇帝という意味合いの方が遙かに強くなっていた。
漢字訳
ローマ人以外の人から見比べると『中国の皇帝』同じらい絶大な『官職』なので、ローマ人以外から見ればローマ皇帝が妥当な言葉であると考えられている。
ただし同時代の中国の資料ではローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスのことが大秦国王の安敦として記載されている。