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ジョン・フォスター・ダレスの編集履歴

2024-06-01 18:56:29 バージョン

ジョン・フォスター・ダレス

じょんふぉすたーだれす

アメリカ合衆国の政治家。同国第52代国務長官

概要

所属国アメリカ合衆国
出生日1888年2月25日
死亡日1959年5月24日(71歳)
出生地アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
所属政党共和党
出身校プリンストン大学、ジョージ・ワシントン大学
宗教プロテスタント(あくまでどっぷり浸かった程度
配偶者ジャネット・ポメロイ・エイブリー
子女3人(2男1女)

ジョン・フォスター・ダレス(英語:John Foster Dulles、1888年2月25日 – 1959年5月24日)は、アメリカ合衆国の政治家。1953年1月にドワイト・D・アイゼンハワー政権の1期目で国務長官に就任し、在任中は強硬的な反共主義のスタンスを主張した。1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効され、主権を回復して間も無い頃の日本にとっては無視できない存在であった。


経歴

初期

1888年2月25日にワシントンD.C.にて、アレン・メイシー・ダレスとエディス・フォスターの間に誕生した。プリンストン大学(1908年6月)とジョージ・ワシントン大学ロースクールを卒業した後、ニューヨークの大手法律事務所であるサリバン・アンド・クロムウェルに入り、1919年1月に開催されたパリ講和会議にはアメリカ合衆国代表団の法律顧問として参加した。


第2次世界大戦期・その後

1945年4月にサンフランシスコ会議に参加し、国際連合憲章の前文を起草するのに尽力した。1949年7月に連邦上院議員(ニューヨーク州選出)に就任し、同年11月に実施された連邦上院特別選挙で民主党のハーバート・ヘンリー・レーマンに敗北するまで務めた。1950年4月には政敵を支援していたにも関わらず、インド太平洋地域を担当するトルーマン大統領の特別顧問となった。


国務長官

1953年1月にドワイト・D・アイゼンハワー政権の1期目で国務長官に就任し、在任中は反共政策を積極的に推進して1959年4月まで務めた。共産主義を「神を恐れぬテロリズム」と呼んで強硬に反対したが、1955年6月の演説で「中立は益々時代遅れになってきており、非常に例外的な状況を除いてそれは不道徳で近視眼的な考えである。」と主張した時、非同盟諸国の多くの指導者を遠ざけた。同年5月24日にワシントンD.C.にて71歳で死去し、葬儀がワシントン大聖堂で執行された。


国際関係

日本

1952年4月に発効したサンフランシスコ講和条約の重要な立案者となり、この条約で1945年8月以来続いていたアメリカによる日本の占領統治は終了した。日本との同盟関係を確立した日米安保条約によって日本は冷戦でアメリカの陣営にしっかりと留まり、日本国内にアメリカ軍基地が継続的に維持される事が保証され、死去してから1年1か月後の1960年6月に改訂された条約が発効した。


家族

1912年6月にジャネット・ポメロイ・エイヴリーと結婚し、2人の息子と1人の娘が誕生した。


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