1603(慶長8)年、甲斐25万石を与えられ、1607(慶長12)年に四兄である松平忠吉の遺領である尾張清洲47万2千石へ移封される(後に名古屋へ移動となり、所領も62万石に加増される)。
1624(寛永元)年、31(寛永8)年に、無断で江戸へ向かうという事件を起こしている。これは前者が甥である3代将軍・家光急病のうわさから、後者は大御所・秀忠発病の報告からであったが、武家諸法度には「江戸で事件があっても自身の領土にとどまる事」と定められており、下手をすれば改易に繋がりかねない重大事でもあった。
1650年死去。跡を長男の光義が継いだ。