ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

李舜臣の編集履歴

2025-01-07 12:29:10 バージョン

李舜臣

りしゅんしん

李氏朝鮮の時代に活躍した人物。朝鮮読みはイ・スンシン。字は汝諧(ヨヘ、여해)。朝鮮半島において国民的人気の高い人物。

生涯

李舜臣(ハングル:이순신)、字は汝諧(ヨヘ、여해)は、1545年(明暦:嘉靖24年)、父・李貞の子として、漢陽の乾川洞に生まれた。

22歳から武科の試験(科挙)を受け始め、合格したのは1576年(この時32歳だった)。


その後各地を転戦していく事となったが、1591年、幼馴染みあった柳成龍の推薦により全羅左道水軍節度使に抜擢されたことで、その後の彼の運命は変化していった。


1592年、豊臣秀吉による所謂朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が始まると、李氏朝鮮の将軍として策を講じるも当時の李氏朝鮮の上層部の腐敗は甚だしく、後方支援が望めない状況の中、最大限の被害を与える現実的な手段として海上ゲリラに徹し日本軍側を苦戦させる活躍を見せた。だが独断専行に近い行動をとっていたため更迭され(当時の宮廷は政争に明け暮れており一々上層部の指示を待てなかった面もある)死罪を宣告されたが、なんとか助命され一兵卒まで落とされてしまう事態も起きたが、また返り咲き指揮をとった。しかし日本側に対策を練られ戦果を挙げられなくなってしまう。


そして、最期は停戦命令を無視し深追いした所日本軍に反撃され戦死したとされる。



人物評

とにかく韓国での人気は非常に高い事で有名である。一方、日本においては、ごく一部には知られているがマイナー路線というのが正直なところである。


その事を裏付けるように、彼を題材とした映画『鳴粱』(2014年)が韓国国内において爆発的ヒット作となっている。

この映画での李舜臣は腐敗や嫉妬が蠢く朝鮮にいながら優れたリーダーシップを発揮し、僅か13隻の船で日本の133隻もの大軍を打ち破った英雄として描かれている。


資料は少ないながら当時の朝鮮半島で数少ないまともな戦術眼を持ち、上に足を引っ張られながらも日本との絶望的な戦いをやり遂げ、最終的にはあっけなく死亡と中々に波乱万丈な人生から創作のし甲斐があるのも原因だろうが、いかんせん資料が少なく人気の高い韓国でも講談や小説との混同が激しい。


関連タグ

李氏朝鮮

亀甲船(彼が使用したとされる伝説的な軍船)


外部リンク

李舜臣 - Wikipedia

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました