経歴
1934年生誕 - 西元流家元の息子として生まれる。
1957年 - 西元流を立ち上げた母親が病死
このころの彼は実家を勘当されている身ではあったが金銭的援助は
それなりにあったらしく当時はめすらしいヨーロッパ旅行に出向くなど青春を謳歌していた。
授業をサボる、イヤ大学を休学しての海外旅行
旅先のドイツで米軍基地内のクラブ(飲み場)でアルバイト
帰国後も東京にて六本木や新宿のキャバレーにて司会者を務める
音楽関係の仕事をこなす中業界とのコネクションができた。
1963年 - 音楽関係の事務所『オフィス・アカデミー』を創設
196?年 - 音楽関係の才能を買われて手塚治虫の虫プロ商事に
属託的社員な立場で入社、今でいう契約社員というものか?
虫プロ商事とは虫プロダクションの営業部門、いわば子会社
鉄腕アトムのブームは当時終了して試行錯誤であった
1971年 - 「ふしぎなメルモちゃん」アニメ化
この時“社長代行”へと就任、彼がテレビ局・朝日放送に「~メルモちゃん」の売り込みに成功
手塚治虫の強い信頼を得ていた。
1973年 - 「ワンサくん」アニメ化&幼年誌「てづかマガジンれお」創刊
メディアミックス戦略も打ったものの番組は低視聴率に、雑誌「れお」も6号目で終わり
経営に失敗し虫プロに波乱が巻き起こる。
後に彼は作品版権を手塚に無断で売却!ここで手塚治虫の不興を買うことになる
ちなみにそれは「海のトリトン」アニメ化権利を所得、これが自身が初のプロデュース作品となる。
さらに監督は富野由悠季! 音楽担当はジャズの鈴木宏昌!
さすが音楽にはこだわりがあった。
1973年8月 - 虫プロ商事倒産!子会社のため虫プロ本社にはダメージはなかったがイメージ悪化
同年11月 - ついに虫プロ本社も連鎖倒産する!手塚の仕事場では彼の名前が禁句、タブーとなったとか。
1974年? - アニメ制作会社「端鷹エンタープライズ」
彼は虫プロ時代の実績を買われて役員待遇で迎えられた。
そして『宇宙戦艦ヤマト』の企画を考案する!
“ガミラス侵攻により荒廃した地球を立て直すため、宇宙船ヤマトで異星イスカンダルへと旅立つ”
といったストーリーの考案、さらにロボットのアナライザーなどの初期設定までもが!
ここで西崎はキャラクターデザイン担当には松本零士を起用
1974年10月6日 - 宇宙戦艦ヤマト放送開始。
この時、制作表記が「オフィス・アカデミー」とのこと「機動戦士ガンダム」とならぶ大ヒット作となる
同年秋田書店・『冒険王』よりコミカライズ版「宇宙戦艦ヤマト」作画・松本零士!
他にも聖悠紀らのコミカライズ版があったものの
後年、松本零士のマンガが平成の世につたわっていく事に
これが「松本零士・原作」というイメージが定着してしまう。
1980年 - 劇場版「ヤマトよ永遠に」、この時点では原作者表記は西崎・松本両方の名が
1983年 - 劇場版「宇宙戦艦ヤマト 完結版」
ストーリーに関する共同作業のため原作表記は同じく西崎・松本。
1997年 - 西崎の個人事務所「ウエストケープコーポレーション」(元オフィス・アカデミー)倒産
1999年 - 松本零士と西崎の「ヤマト」の著作権裁判
近年によるパチンコ。ゲームソフト化などによる莫大利益が原因ともいえる。
後にヤマトの版権は東北新社に預けられる。
2008年 - 集英社・週刊プレイボーイ誌にて庵野秀明との対談
2010年 - 実写版映画「ヤマト」公開を待たずして不幸な事故で亡くなった・・・
エピソード
高校時代 - 私立の名門武蔵高校出身、当時の卒業生達は東大への合格者も多かった
大学時代 -
高校の先輩達にならって東大受験を目指すものの、二度にわたり失敗、浪人生
彼は日大藝術学部へ入学、後休学して親の仕送りで海外旅行。おぼっちゃん生活
オフィス・アカデミー元事務員の証言より -
数名の美女らを秘書にして身の回りの世話までさせていた?ハーレム状態
自家用クルーザーにて映画のキャンぺーンガールのオーデションまで開く始末
遊び癖が多かったといわれる
「宇宙戦艦ヤマト」プロデューサー時代 - 莫大な利益を得て豪邸を立てていたとか
トラブルメーカー - 自己破産と度重なる逮捕と拘留
1979年 - 約3億円の脱税があきらかに
1991年 - 不動産投機など事業拡大に失敗
罪状 - 麻薬取締法違反・保釈中に海外へ向かい武器密輸により再逮捕
不幸な事故とは? - 実をその時自家用クルーザーYAMATOから誤って転倒とのこと
(参考資料:コアマガジン『映画ドラマ&漫画アニメ&特撮 秘密大全』ほか
余談
作家の山本弘は後にヤマトの新作の科学考証を依頼されたが西崎のワンマンぶりを知っていた為(「白色矮星」を「白色惑星」に無理やり変えさせた、等)丁重に断っている。
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