史実
平安時代中期の作家、歌人。清原氏の出。「清少納言」は通称で、本名は不明(「清原諾子(きよはら の なぎこ)」という説がある)
陸奥守・橘則光と結婚し一子をもうけるも、武骨な夫とそりが合わず離婚。一条天皇の中宮藤原定子に仕えた。
利発で気の強い性格であるともされ、人によって好き嫌いの出る人物だったようだ。そのせいか『晩年不遇説』をでっちあげられたりもしている。
紫式部とは、中宮彰子と定子の跡目出産競争もあって、ライバル関係とも目されており、『紫式部日記』に清少納言の悪口が書かれている。ただし、紫式部が宮仕えをはじめたのは清少納言が退職した後であり、二人の間には面識はなかったと思われる。
定子が出産時に亡くなってまもなく、清少納言は宮仕えを辞めた。退職後は彰子の女房たちとも手紙を交わしており、彼女の根に持たないさっぱりとした性格が窺える。
『枕草子』作者として
随筆『枕草子』の作者である。『枕草子』には、定子が大好きであった節が多々見受けられるため、「『枕草子』は最古の百合エッセイ」などと言われることもある。ちなみに、少納言は定子より11歳くらい年上である。