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筒井順慶の編集履歴

2013-09-21 16:32:46 バージョン

筒井順慶

つついじゅんけい

室町時代・戦国期の大和国の大名。順慶は僧名であり、俗名は藤政(ふじまさ)。 わずか2歳で家督を継ぎ、島左近とともに松永久秀の侵略に耐え忍ぶ日々を送る。 明智光秀とは友人であったが、「本能寺の変」後の光秀の召集には応じず静観を決め、裏切る結果となった。 その後は体調を崩して病没。36歳という短い波乱の生涯を送った。

筒井順慶とは、室町~安土桃山時代に登場した戦国大名の一人である。


解説

生没1549年(天文18年)~1584年(天正12年)
出身大和国
領国(同上)

松永久秀との因縁

戦国時代を生きた大和国の大名。

生まれてすぐに父・順昭が病没したことで、女兄弟しかいなかったこともあってわずか2歳で家督を相続することとなった。叔父の順政が後見人となるも、当時破竹の勢いを誇った松永久秀が大和に進攻し、脅威に晒されることとなった。さらに順政の急な病死により、状況は悪化。1565年には久秀からの吸収を受け、ついに居城・筒井城を奪取されてしまう。

その後しばらくは、布施氏の下で雌伏の時を過ごすこととなった。


筒井城争奪戦

翌年、久秀から離反した三好三人衆と結託して筒井城奪還を敢行。[堺>大阪]]で三好義継が久秀を抑え込んでいる隙を突いて筒井城の奪還に成功した。

その後、春日大社に参詣した際に宗慶大僧都と出会い、彼を戒師として藤政から陽舜房順慶と改名。久秀の勢いを削ぐべく再び刃を交えるも、この頃に室町幕府15代将軍・足利義昭の威光を受けて禁忌に勢力を拡大してきた織田信長に久秀がいち早く誼を交わし、信長という強力な後ろ盾を得た久秀にまたしても居城を奪取されてしまう。

福住城(現在の天理市)に潜伏して反撃の機会を待った順慶は、敵方の内情の混乱の隙を突いて着々と反撃のための力を蓄積していき、1571年に辰市城を築城して最前線基地とし、地元の民衆の協力を得て大規模な合戦を展開。二度目の筒井城を奪還に成功し、さらに久秀の重要拠点である多聞城と信貴山城の導線を寸断することに成功する。

なお、この頃に島左近を重臣に置いたとされる。


信長への従臣

1571年、明智光秀佐久間信盛の斡旋によって信長に従臣。

『信長包囲網』の中で久秀と和議を結び、しばらくは良好な関係が続くも翌年には瓦解し、再び対立関係に戻る。

従臣後の順慶は、雑賀一揆(紀州征伐)や北陸の一向一揆の鎮圧に参加し、長篠の戦いにも鉄砲隊50人を供出している。そうした努力が実を結び、1576年には信長から大和守護に任ぜられ、ようやく順慶は大和国の領主として返り咲くことに成功した。

そして1577年の『信貴山城の戦い』にて、久秀との長きにわたる因縁に決着を付け、その遺体を順慶軍が回収して達磨寺に葬った。

その後、大和国の各所にある城を信長の命によって破棄し、大和郡山城を築城。

信長に従事し、力を振るう日々が続いた。


再びの波乱

しかし、この平穏も長くは続かなかった。

1582年に「本能寺の変」が起き、光秀が信長に謀反を起こしてこれを討伐。

文化人・知識人として光秀に頼られていた順慶には、当然ながら光秀からの誘いが来ていた。

これに対し、順慶は家臣たちと度重なる評定をおこない、最終的に羽柴秀吉への恭順を決定。しかし籠城の準備をするにとどまり、「山崎の戦い」でも洞ヶ峠(大阪と京都の境界)に布陣しながら静観を決め込むこととなった。

戦後、秀吉に拝謁した際にその参陣の遅さを叱責されるも、引き続き大和一国を安堵される。

だがこの頃から順慶の胃は病に侵され始め、「小牧・長久手の戦い」では胃の不調を押して参戦。そして故郷に帰って間もなく、36歳の葉蘭の障害に幕を引いた。


関連タグ

戦国時代 武将 戦国大名

奈良県

松永久秀 島左近 明智光秀

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