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概要

前田氏の家臣。前田利家の父・前田利昌や、利家の兄で前田慶次の義父・前田利久に仕え、荒子城の城代を務めた。佐々成政の1万5千の軍勢に攻められた能登の要衝・末森城を僅か300の兵で守りぬいた鉄壁の将であり、村井長頼と共に前田家加賀百万石の基礎を築いた重臣。

妻は加藤氏の娘・安(つね)。子に栄明、易英、栄頼を授かる。

ちなみに「奥村助右衛門」の名は通称であり、本来の名は「奥村永福(ながとみ)」または「奥村家福」とも。

原哲夫漫画花の慶次 -雲のかなたに-』で有名になったこともあり、その影響で現在では「助右衛門」の名で呼ばれることが多い(メイン画像も同作におけるもの)。

来歴

天文10年(1541年)、尾張前田家の家老・奥村宗親の次男に生まれる。

利久に養子の慶次しか子がいなかった事や、利家が織田信長のお気に入りだったことから、信長の差配により前田家の家督を利久から利家に譲る事になった際に、荒子城に入ろうとする利家に対して「利久の命令なくば城は渡さぬ」と頑強に抵抗する。その後、利久から明け渡しの命を受けて、荒子城を前田利家に明け渡すと同時に前田家を辞し浪人となる。

信長が越前の朝倉義景を攻める頃に前田家に復帰し、利家が加賀に入ると能登の要衝・末森城の城主となった。

信長が本能寺の変で死した後、羽柴秀吉についた利家に対して信長の親衛隊時代からのライバルで柴田勝家についた佐々成政が、1万5千の兵を率いて末森城を攻めた際に、奥村は300名ほどの手勢を率いて篭城し、病身の妻の叱咤激励もあって利家の援軍到着まで持ちこたえた。

※ 前述の荒子城の明け渡しを拒否したエピソードから、「永福なら末森城を簡単には渡さないだろう」という利家の計算があったとかなかったとか。

※ 一説には前田慶次の協力あったとかなかったとか。

その後も、前田家古参の重臣・村井長頼と共に家老として加賀百万石の基礎を築くことに尽力し、九州征伐や小田原征伐に参加した。

利久に続き利家も没すると隠居して出家したが、大坂の陣の際は金沢城の城代を務め、その後、三男の栄頼が政敵の横山長知との対立により、長兄の栄明や次兄の易英や徳川家康に敵対し続けているのに、何故か諸大名から引っ張りダコだった本多政重と共に万石以上の家臣が一斉に出奔する計画を実行しようとしたところ、重臣達の出奔を理由に前田家を取り潰されては困ると隠居していた永福が説得にあたり、栄頼のみが出奔するレベルにとどめて前田家の危機を救ったとされる。

寛永元年6月12日(1624年7月27日)、84歳で没した。

その後も奥村家は加賀藩八家に数えられ、子孫はその後も前田家に代々家老として仕えた。

※その他「奥村助右衛門/奥村永福」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。

Pixivでは

前述の『花の慶次』から名が知られるようになったこともあり、投稿されるイラストのほとんどが同作の「奥村助右衛門」のものである。

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