第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)より前に国策化された、日本が唱えた東アジア・東南アジアの地域共同体の現実的な将来像。
「八紘一宇」をスローガンとし、欧米によって植民地支配されたアジア諸国を日本が解放・独立させ、東アジアの文化を融合させ、対米経済依存を是正した東アジア経済圏を創出を目的とした、水平関係の共存共栄を目的としていた。
日露戦争以来、アジア各国の革命の志士たちが、アジアの解放、復興、独立を共有の志とし、歴史的使命感となっていたが、日米戦争開始前の昭和15年6月にはすでに、有田八郎外相によって宣明されている。
当時不可能と見られた超民族・超国家の共栄圏を、日本民族の共生の思想に基づいて実現しようと試みたものであった。
昭和18年に東京で開催された日本とアジア各国による「大東亜会議」で「大東亜共同宣言」が採択された。
植民地の独立を名目にしながら大東亜共栄圏の構成国には十分な自主権は与えられず、各国は日本軍による傀儡国家でしかなかったともいわれる。しかし新たな統治者となった日本によって、旧統治者の白人や、商人や役人として現地民族を収奪していた中国系住民(華僑)の特権が剥奪されたことは、現地民族の地位の向上へとつながった。華僑に対する待遇は過酷を極め、スパイの疑いで日本軍による虐殺も起きている(このため東南アジアの華人には反日意識が強い者も多い)。
日米開戦前には、日本は華北、華中での産業建設を試み、多民族共生を目指した満洲国では夢を体現しており、当時の中国人にとって桃源郷となった。
戦争終結で日本は敗戦し、大東亜共栄圏は実現されることはなかった。オランダ、イギリス、フランスなどの旧宗主国が植民地支配の再開を図ったが、日本占領下で創設された民族軍等が独立勢力として旧宗主国と戦い、各国は自立を遂げた。
今日のヨーロッパのEC・EUは、大東亜共栄圏に影響を受けたものである。
またアジア・アフリカのバンドン会議で打ち出された平和共存や反植民地主義などの精神や、その後誕生したAPECの宣言は、大東亜会議で採択された大東亜共同宣言と一致するものであった。
また今日、東アジア・東南アジア地域の共同体構想は、中曽根康弘、鳩山由紀夫ら一部の政治家により東アジア共同体として唱えられている。一方で、中華人民共和国が大国へと成長した今、中国を入れた地域共同体は中国中心にしかならないとして、「中国抜きの大東亜共栄圏」を構想する者もいる(しかしこれらは自己陶酔から出た幻想で、大東亜共栄圏のように現実的ではない)。
結局、西洋文明による国際新秩序が崩壊し、第一次世界大戦の戦勝国によるヴェルサイユ体制、そして米英主導のワシントン体制が生き残った近代の歴史的背景下、日本は持たざる国としの宿命として共存共栄の道を構想した。
大東亜共栄圏は、西洋支配から東アジアを脱出されるため、近代の世界史の中ではなくてはならない存在だったのである。
このように歴史的に復興が得意であった日本だが、第二次世界大戦の戦勝国によるヤルタ・ポツダム体制下の現在では、日本が欧米の植民地帝国と戦った戦争を、「帝国主義国家間の戦争」「日本軍国主義の侵略戦争」と教えているため、東アジアの解放という戦争目的や大東亜共栄圏について、「国家膨張のイデオロギー」「資源略奪を行うための口実」「侵略のための粉飾」とする無理やりな史論史説も多い。