乾隆帝
(けんりゅうてい・ケンリューディ)
生没:1711年9月25日 - 1799年2月7日〈88歳〉
在位:1735年10月8日 - 1796年2月9〈60年〉
清朝第六代皇帝。即位28歳で即位し治世は60年(実際は64年)清帝国の版図が中華人民共和国を上回る領土となり、政治・文化・芸術が最高潮に達した。〈十全老人〉
前2代の皇帝と比べると乾隆帝はかなり派手好きで、ナルシストの気質が強く、そして芸術〈書道・陶芸・絵画・劇物〉・享楽・文武・美食などに散財する所があった。雍正帝の皇位継承は凄惨な結果を生み出したが、乾隆帝の即位は誰もが認めるところだった。幼少から祖父にあたる康熙帝に可愛がられ、帝王学を授けられ、才覚にも優れ、尚武の気質も備わっていた。まさに生まれながらの皇帝として雍正帝の跡を継いだ。
乾隆帝はまず宮廷制度を充実させ、たびたび減税を行い、内政の安定を図った。また貨幣経済が発展し、各地の産物も広く交易され、茶や絹織物や陶磁器は遠くヨーロッパまで輸出された。大量の銀が海外から流入し清朝の財政はかつてないほど豊かになった。その財力を基に、乾隆帝は十度にわたる外征を行った。北はモンゴル遊牧民のジュンガルを討ち、西はウイグルのホージャ一族を滅ぼすと、その地を、新しい領土「新疆」(しんきょう)と名づけて清帝国の拡大を図った。また南はベトナム、台湾、雲南、ビルマ(ミャンマー)、ネパールなどに、それぞれ大遠征を行い、これにより清帝国の最大版図(今日の中国+モンゴル+東南アジア+トルキスタン)の領土)を形成した。乾隆帝は前2代の皇帝と比べると乾隆帝はかなり派手好きで、ナルシストの気質が強く自らの治世を『十全の治・十全武功』と称した。〈芸術絵画や文芸、歌舞音曲、建築、工芸〉にいたるまで幅広く芸術を愛し、また享楽・文武・美食などに散財する所があった。歴史的な名品・一品を作らせて数多くの文化的遺産を後世に遺した。この頃、宮廷およびシナ大陸の文化は爛熟期を向かえ、清がもっとも繁栄を謳歌した時代であった。1796年に大清皇帝を退位し、息子(嘉慶帝)に帝位を継がせ、十全老人〈太上皇〉に即位する。もはや敵なしかと思われたが最晩年に、苗族の反乱や白蓮教徒の反乱などが起こった。さらにこの時期に中国におけるイエズス会の活動を禁止し、完全な鎖国体制に入ったことでのちの欧米の侵攻に対する清帝国の抵抗力を奪ってしまった。享年88
その他
- 満漢全席・・・食にうるさい乾隆帝が最上の料理を求めて作らせた料理品の数々。
- 太上皇・・・退位した存命の皇帝に送られる尊号のこと上皇または太上皇帝とも。「太上」は「最高の」という意味。中国では同時期に存在する太上皇は一人のみであり太上皇存命時に皇帝が譲位し新たな太上皇となった場合もとの太上皇には無上皇の尊号が奉られたことがあった。日本では位を退いた日本の天皇には太上天皇の尊号が奉られる。
- 古今東西の王者にはよくあることだが、美少年なども愛したとされる。
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