生涯
父親は正史三国志の蜀書によると寇氏の出とされるが、この寇氏が
劉氏の遠縁であるという説もあり、出自含め今一つはっきりしない部分も存在する。
養父の劉備が、荊州の劉表に庇護されていた時に迎え入れられたとされる。
(三国志演義では、劉禅出生後に迎えたとしている。)
劉備の入蜀の際に抜群の功を立て、副軍中郎将に任命された。
この後関羽の樊城攻めに先立つ上庸急襲で孟達の援軍に赴き、この時の功で副軍将軍となった。
しかし、領内の反乱(三国志演義では申儀によるものとする。)に悩まされ、
関羽の援軍要請を拒否してしまったため、結果的に呉軍の離反によって
関羽は戦死することになり、さらには勢いに乗る魏呉の連携作戦のために
孟達の離反、上庸の失陥という結果を生んだ。
この結果に激怒した劉備は、これらの責任は劉封にあるとして、劉封を咎め、死罪を命じた。
この際、三国志演義では諸葛亮が処刑を中止するよう劉備に懇願しているが
正史三国志によれば、劉封は次代では御し難いとして処刑を催促している。
一方で劉封自身は、正史三国志では自らの判断を悔いた上での死となっているが
三国志演義ではあくまで劉備ひいては蜀への忠誠を固く守っており、死後それを知った
劉備が病になると書かれており、彼の名誉や気持ちの真相はいかばかりか、である。
息子が1人おり、彼は罪に問われず劉禅に取り立てられた。
しかしその生涯は不遇であったらしい。彼はそれにもめげず蜀に忠誠を誓い、
蜀滅亡後は劉禅の一族とともに魏晋政権下で暮らしたという
関連項目
豊臣秀次:異国の似たような人物
南部信直:異国で似たような待遇であったが・・・