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プリンツ・オイゲン

ぷりんつおいげん

オーストリアの名将とそれに由来した軍艦の艦名。ここでは第二次世界大戦で活躍したアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦三番艦を主に記す。(画像下の艦)

プリンツ・オイゲンとは

1、オイゲン・フランツ・サヴォイエン=カリグナン(1663年10月16日~1736年4月24日)

  オーストリアの名将。政治家。帝国大元帥。

  ソワソン伯ウジェーヌ・モーリスルイ14世の愛妾であったオランプ・マンシニの子としてパリに生まれる。故にルイ14世の実子との説もある。

  フランス軍に入るも重用されず、1683年にオーストリア軍に入隊。

  大トルコ戦争を皮切りに大同盟戦争スペイン継承戦争墺土戦争などの戦争をイタリア方面軍司令官、対トルコ皇帝軍総司令官、軍事委員会総裁、軍務総監、ライン方面軍司令官などとして歴戦。またミラノ総督、ネーデルラント総督、イタリア副王も務めた。

  スペイン継承戦争で英国の名将マールボロ公ジョン・チャーチルと共にブレンハイム、アウデナールデ、マルプランケ会戦においてフランス軍を破った活躍で有名。

2、オーストリア=ハンガリー帝国海軍カイザー・マックス級装甲艦の二番艦。

  1861年10月、起工。

  1862年6月、進水。

  1863年3月、竣工。

  1866年7月20日のリッサ沖海戦に参加。

  1904年除籍。工作艦ヴルカンとなる。

  1919年、イタリアに賠償として譲渡される。

  1920~1921年頃に解体された。

  

3、オーストリア=ハンガリー帝国海軍のフィリブス・ウニティス級戦艦の三番艦。

  1912年1月16日、起工。11月30日、進水。

  1914年7月17日、竣工。オーストリア=ハンガリー帝国海軍唯一の弩級戦艦からなる戦隊として第一艦隊第一戦隊に姉妹艦と配属になる。

  1918年除籍されてユーゴスラビアに譲渡された後の1920年にフランスに賠償艦として接収される。

  フランスでは水中爆発、爆撃などの実験に使用された後の1922年6月28日に標的艦として撃沈された。

4、ドイツ海軍アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦の三番艦。

  本項に記載。

主要データ

 基準排水量:14、680t。

 満載排水量:18、750t。

 全長:207.7m。

 全幅:21.7m。

 武装:20㎝連装砲塔4基。

    10.5㎝連装高角砲塔6基。

    37㎜連装機関砲6基。

    20㎜連装機銃4基。

    53.3㎝三連装魚雷発射管4基。

 装甲:水線80㎜。甲板50㎜。主砲前盾105㎜。司令塔150㎜。

 最大速力:32ノット。

 乗組員:1600名。

艦歴

 1936年4月23日、キールにて起工。

 1938年8月22日、進水。

 1940年7月、英空軍の爆撃で爆弾二発を受け損傷。8月1日、竣工。

 1941年5月21日、「ライン演習作戦」で戦艦ビスマルクと共にベルゲンを出撃。24日に英国の巡洋戦艦フッドと戦艦プリンス・オブ・ウェールズと交戦。ビスマルクと共にフッドを撃沈し、プリンス・オブ・ウェールズを撃破する。

 その後、ビスマルクに英艦隊が吸引される間隙を縫って通商破壊戦を実施する為に分派されるがビスマルクの撃沈で状況は厳しくなり、戦果のないまま29日、フランスのブレストに入港する。

 7月2日、英空軍の空襲で爆弾一発を被弾、損傷。

 1942年2月12~13日の「ツェルベルス作戦」で空軍の護衛のなか、巡洋戦艦シャルンホルストグナイゼナウ、駆逐艦6隻、水雷艇14隻と共に白昼堂々英仏海峡を突破してブレストからドイツ本国に帰国。

 23日、駆逐艦四隻の護衛の元、戦艦部隊司令長官オットー・チリアクス中将の旗艦として装甲艦アドミラル・シェーアと共にノルウェーに進出中にトロンヘイム沖にて英潜水艦トライデントの雷撃で艦尾を大破。修理の為にキールへの撤退を余儀なくされる。

 1943年5月、練習艦となる。

 1944年1月より1945年4月までバルト海沿岸での艦砲射撃による陸軍支援などに活躍。

 その期間での10月15日に軽巡洋艦ライプチッヒと衝突し艦首を大破し、ゴーテンハーフェンで11月13日まで修理に費やす。

 1945年5月7日、コペンバーゲンにて連合軍に接収され、12月14日にはブレーメルハーウェンにてアメリカに賠償として譲渡される。

 1946年1月22日のボストン入港後、アメリカ国内で実験などを受けた後、7月1日、25日のビキニ原爆実験を受け黒焦げになりながらも沈没を免れるも、12月22日、クェゼリン環礁に運ばれる途中のエニブジ島沖にて座礁し転覆する最期を遂げた。

評価

 アドミラル・ヒッパーブリュッヒャーに比べ設計に変更が若干あり、アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦の中でも本艦とザイドリッツリュッツォウプリンツ・オイゲン級重巡洋艦と呼称する事もある。

 防御は艦の大きさを考慮するまでもなく列国重巡洋艦に対して不足気味で、他国に比べ主砲の防御に力を置いているが、その点でも防御不足は否めないものであった。

 高性能を発揮した高温高圧ボイラーと複雑なタービン構造は故障が頻発し本艦の泣き所であった。

 デンマーク海峡海戦でも効果を発揮した本艦の水中聴音器はアメリカに高く評価されたという。

 ノルウェーで英駆逐艦グロウォームを撃沈しても世間的には圧倒的不利な状況で奮戦して体当たり攻撃を敢行したグロウォームが賞賛され、ユーノー作戦では当初はシャルンホルスト、グナイゼナウと同行しながらも英空母グローリアス撃沈の場面に居合わせず、通商破壊では姉妹艦のなかで唯一つ商船8隻を沈める成績を挙げながらも、その前の機関の不調で出撃出来なかったり、船団攻撃を護衛の敵巡洋艦に阻まれたりした印象で帳消しされ、挙句の果てには圧倒的な兵力で敗退してヒトラーを激怒させ、ドイツ水上艦隊をあわや解体させるところだったバレンツ沖海戦の旗艦を務めた負の印象でか、活躍の割には地味な印象を与える長女のアドミラル・ヒッパーに対して、ライプチッヒをあわや両断する衝突事故を起こす失態を犯しながらも、デンマーク海狭海戦、「ツェルベルス作戦」、ドイツ海軍最後の煌めきとでもいうべきバルト海での陸軍支援などドイツ海軍の活躍にスポットライトが当たる場に居合わせる華があり、戦争を生き残り、ビキニ原爆実験にも耐えた強運ぶりから、本艦をアドミラル・ヒッパー級のみならず、ドイツ海軍の中で最も活躍した艦艇と称す声も多い。

余談

 当初はドイツに併合したオーストリアのリッサ沖海戦でイタリアを破った名将ヴィルヘルム・フォン・テゲトフ提督の名を冠する予定であったが、同盟したイタリアの国民感情を考えてプリンツ・オイゲンにしたと言われる。

 プリンツ・オイゲンは祖父がイタリア王家の祖であり、自身もイタリアのオーストリア領の副王であったからかイタリア海軍もエマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ級軽巡洋艦の二番艦にエウジェニオ・ディ・サヴォイア(サヴォイア公オイゲン)と命名しており、またイギリスでも自国の名将マールボロ公ジョン・チャーチルと共闘した名将故かロード・クライヴ級モニターの五番艦をプリンス・ユージーンと命名している。

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