歴史
古くこの地域には先住民プルーセン人(プロシア人)が住んでいたが、プロイセンの前身であるドイツ騎士団はキリスト教布教のためこの地へ遠征し領土を拡大させていった。この征服戦争は改宗に応じない先住民を容赦なく殺戮するという凄惨なものとなり14世紀末まで続く。
その後ポーランド=リトアニア連合王国と対立し1410年にタンネンベルクの戦いで敗戦、以降は賠償金やプロシア連合との対立などにより衰退し、1454年から1466年の13年戦争の敗北によって西プロイセン(後にポーランド王領プロシア)を失い、ポーランド王の宗主権下で生き延びる。
1525年にはルター派プロテスタントに改宗して世俗公領になり、後にブランデンブルク選帝侯がプロイセン公を相続してブランデンブルクとの同君連合ブランデンブルク=プロイセンとなる。
1660年にプロイセン公国として独立、1701年にスペイン継承戦争への参戦により国号を得てプロイセン王国が誕生。
軍国として発展してヨーロッパの大国へとのし上がり、西ドイツまで領土を広げる。1871年に成立したドイツ帝国の盟主となり、首都はプロイセン領ブランデンブルク地方にあるベルリンにおかれた。この時点でプロイセンの領土と人口はドイツ帝国領域の過半を占めていた。第一次世界大戦におけるドイツ帝国の敗戦にともないプロイセン王国はヴァイマル共和国の一邦・プロイセン州となり、西プロイセンはポーランドに割譲され、本来のプロイセンは「東プロイセン」として飛び地となる。
1934年にナチス・ドイツは州の機能を停止し、プロイセンは政治的単位としての実態を失う。第二次世界大戦末期、ドイツ東部は独ソ戦の戦場となり、東プロイセン地方に住んでいたドイツ人の多くは西方に逃れる。ナチス・ドイツの敗北後、プロイセンはドイツ軍国主義の元凶扱いされ、連合国はプロイセンの抹殺を取り決めた。この地に残っていたドイツ人はドイツ西部に追放、領土はロシアとポーランドに分割され地上から完全に消滅することとなる。
関連
ドイツ プロイセン王国 ホーエンツォレルン家 フリードリヒ2世(プロイセン)
藍色:Prussian Blue(プロシアの青)