ここでは史実での扶桑型戦艦について取り扱う。
概要
金剛型巡洋戦艦に引き続き建造された、(巡洋戦艦を戦艦としないならば)日本で最初の超弩級戦艦である。
とはいえ扶桑型の設計には、金剛型のイギリスから輸入した設計を参考としてそれを戦艦に改めたという面が多く、技術を日本自身のものとしたとは言い難かった。
そのため、初国産の超弩級戦艦という期待を背負いつつも、防御を犠牲にして攻撃に重点を置きながらその攻撃力を発揮できなかったりと、多くの欠点をもって生まれてしまった通称:欠陥戦艦でもある。
特に主砲塔配置に関しては当初、英ヴィッカーズ社からの日本向け提案書に三連装砲塔を載せたものがあった。
だが「命中率や機構的信頼性を考慮すれば連装砲式が望ましい」とする独自の判断に基づき、主砲塔を6基も、しかも中心線上に配置したために、上部構造物の配置は非常に窮屈なものとなった。
一度に多数の敵艦を相手とするには、主砲塔数を増やせばそれだけ対処が可能であるという目論みもあっての事であったが、後に公試での主砲横斉射実験時に爆炎が船体広範囲を包み、照準を妨げたり、水圧機の能力を超えたり、船体が捻じ曲がるという、初期設計の甘さを露呈する結果になった。
また、砲塔が多数ある分防御範囲は長くなり、その分装甲は薄くなった。
その後は度重なる改修によって徐々に問題点を解決していったものの、その所為で活動はほとんどなく、しかもこの詰め込み過ぎた設計のために改修時にも拡張性が乏しく満足のいく改装が施せなかったのも、本艦型が欠陥と呼ばれる所以である。
本来は4隻建造する予定だったが、3番艦予定の伊勢が予算不足のために建造が遅れ、お陰で扶桑型の欠点をある程度克服した伊勢型として改めてロールアウトできた。怪我の功名である。ただし根本的な問題は大和型まで解決していない。
なお、この4隻の艦名は
からそれぞれ名付けられており、当時の日本人がどれだけ期待していたかがよく分かる。
ただしはっきり言ってしまうと、この時期というのはドレッドノート・ショックがあまりに大きすぎて、ポスト・ドレッドノートの最適解はこの時点で判明していなかったというのが実情である。イギリスは自分で作っといて自分で泡を食っている。ドイツは第一次大戦には間に合わず結局第三帝国時代まで待たなければならなくなる。アメリカにしてもニューヨーク級から火力不足・防御力不足・速力不足の三重苦で、これの改善のため試行錯誤が続いた上に、何を思ったのかテネシー級・コロラド級では後にドイツが戦車で失敗するアレに手を出してしまう。その中では扶桑型は砲塔が余計についていただけでもむしろ成功と言ってもいいかもしれない。
ミッドウェー海戦によって主力空母のほとんどが失われてしまったために、航空母艦への改装も検討されたが、主に予算と工事能力の不足のために対象は伊勢型に絞られた。だが、その伊勢型も航空戦艦というヌエ的な存在になってしまったので、どちらが幸いだったか分からない。
見分け方
扶桑は三番砲塔が前向きに、山城は後ろ向きについている点で区別が可能。
またこの砲塔の向きのせいで、扶桑の艦橋は山城よりもいっそう不安な感じになっているため、その点でも区別することができる。
余談
速力についてだが、実は日本海軍の戦艦はもとより、他国の戦艦と比べてもさほど遅くはない。
当時の戦艦は大体24~25ノット(扶桑型は24.5ノット、因みに太平洋戦争中の長門が25ノット)のモノがほとんどで、新鋭艦である大和型(日)、サウスダコタ級(米)、キングジョージ5世級(英)も概ね27~29ノット程度であり、30ノットを超えられた戦艦は数えるほどしかいない。
むしろ金剛型やアイオワ級の様に戦艦の癖に30ノット越えの速力を出せる方が珍しいのである。
しかも、扶桑型の設計はハナッから速力を犠牲にする設計であり速力が出せないのは織り込み済みであった。
実際、問題となったのは機関室の拡張性がなく大型の機関が積めないことにある。
また、山城の艦長たちの記録によれば、「長門達と艦隊行動をとっても支障がなかった」「主砲斉射を行っても特に異常は見当たらなかった」という記録があり、実はいうほど欠陥ばかりでもないのかもしれない。