概要
日本の戦国時代に、関一政の家臣を経てキリシタン大名蒲生氏郷に仕えていたとされる武将。
特筆すべきは、
と言う点で
- 織田信長に仕えた弥助
- 徳川家康に仕えた三浦按針(ウィリアム・アダムス)
らと同じ、日本の戦国大名に仕えた外国人である。
オルガンティーノを護衛する騎士として来日後、日本を気に入ったのか織田信長に属していた関一政配下の戦国武将となり、その後、関一政が蒲生氏郷の配下となった事からロルテスも氏郷に仕えるようになり、山科羅久呂左衛門勝成に改名した。
その能力はと言うと、「御祐筆日記」に曰く
と記されている通り、(当時すでにオスマントルコに奪われていたものの)ロードス島を根拠地にしていた聖ヨハネ騎士団出身らしい、軍事知識をもっていたとされ、その能力は張良や諸葛亮レベルだったとの事で、張子房・諸葛孔明を凌ぐと評価されたロルテスは、九州征伐において荷車に大砲を積んで岩石城攻めに参加、大砲にて城壁を破壊し、一番槍の戦功をあげている。
※日本に簿記の技術を伝えたのはロルテスであるとも。
会津に転封となった蒲生氏郷に従ってロルテスも会津に移住した後については、氏郷が若くして亡くなったのを機にローマにもどったとも、氏郷の意をうけてローマに戻って武器の買い付けを行ったり、その途上で東南アジアの現地人に殺されたとも言われており、諸説あるが確定したものは無い。