ウラルを狙った化鳥
1930年代前半、ドイツ空軍省は来たるべきソビエトとの戦争を想定していた。想定ではモスクワを占領すれば敵は降伏する見込みだったのだが、ヴェーファー首席補佐官はスターリンの命により工業施設がウラルに移動させられるのを目の当たりにして、戦争勃発とともにウラル方面の工業施設は生産のカギとなり、戦争の帰趨をも左右する存在になることを予想した。
この予想に沿った爆撃機開発計画は『ウラル爆撃機計画』と名付けられ、ユンカース社・ドルニエ社には開発・試作機製作が命じられる。時は1935年。この年にナチスドイツは再軍備を宣言し、軍備拡大を進めていく事になる。
当時の国際政治的状況
もちろん、再軍備宣言を黙って見過ごしたわけでは無い。
フランスはこれに大反対し、他にも周辺諸国は警戒を深めた。とくにチェコスロバキアなどはズデーテン地方の帰属問題から一段と警戒した。こうして警戒の高まった国境は1938年、両軍の軍事動員に端を発し、一気に危機を高めていった。ヨーロッパの有力国は両国の緊張緩和をめざし、『ミュンヘン会談』が行われる。
だが、当時のヨーロッパの中でもひときわ強大だったイギリスは、ヒトラーが強硬にズデーテン併合を主張したこと、またチェコスロバキアは他にも近隣国との国境問題を抱えていたこと(これはヒトラーも主張した)を勘案し、チェコスロバキアへの譲歩を勧告する。
『無条件で勧告を受諾しない場合、チェコスロバキアの運命に関心を持たない』
これでチェコスロバキアの運命は決まった。
1938年、ナチスドイツはズデーテン地方を併合。
この外交的成功はイギリスがヒトラーの野心を読み違えたこと、ヒトラーよりスターリンの方を危険視していたこと、また単純に本土防衛のための時間が必要だったことがあると言われている。
とにかく、この成功によりヒトラーはますます増長し、翌年のポーランド侵攻を皮切りにヨーロッパ全土を大戦争にのみこんでいくのである。
当時のズデーテン地方
「ズデーテンではドイツ系住民は迫害され、民族差別などの不利益を受けている!」
このようなヒトラーの主張もあながち間違いではなく、たとえば公務員になれない等、制度から差別を受けていた。もともとズデーテン地方はベルサイユ条約(1919)で分離されるまではドイツの一地方であり、ヒトラーはこうした現状を「民族自決権の妨害である!」として盛んに批判を繰り返した。
そして「イギリスは戦争を回避するためなら、こちらの要求を何でも受け入れるつもりだ」と看破し、またチェコスロバキアの他の国境問題にもつけ込んで、とうとうこの一大工業地帯を併合してしまうのだった。
なお、この地方にはシュコダのような大企業がいくつも工場を持っており、ここで生産された兵器は軍備拡大にも役立った。38(t)戦車などはその一例である。
主導者の死
だが1936年4月、この計画は突じょ方向転換を行うことになる。計画を主導していたヴェーファー首席補佐官が、航空機事故で死亡したのだ。「ウラル爆撃機計画」は中止の憂き目に遭う。
後任のケッセルリンクは敵中枢を長躯爆撃することに価値を感じておらず、「爆撃機は大きくとも双発の中型機で十分だ」と考えていた。また同じく空軍で急降下爆撃機支持の一大派閥を築いていたエルンスト・ウーデットの影響も受け、開発される爆撃機にはことごとく急降下爆撃能力をつけさせた。(例:Ju88など)
He177も例外ではなく、急降下爆撃に耐えるような設計変更が求められた。のちにこの基準は緩められるが、それでも60度の降下には耐えねばならなかった。もちろん、これは設計を一段と困難にした。この時点ではまだ設計図にもなっていなかったが、He177は計画の主導者を失って早くも迷走を始めたのだった。
新たなる野望
だが、ヒトラーの野望はそんなこともおかまいなしに拡大した。同年6月、空軍省は「A爆撃機計画」を開始。この『A』とは、アメリカ本土を意味する符丁である。ヒトラーは、アメリカ合衆国をも野望の対象に入れ始めたのだ。
He177(この時はP.1041という計画書番号で呼ばれていた)は、この計画にもそのまま提案された。『1tの爆弾を搭載し、最大540km/hで約6700kmを飛行する』という要求仕様を満たすものは、決して多くはなく、先のウラル爆撃機で計画されたような長距離爆撃機は必須だったのである。
機械オタク、歓喜の祭典
そうした要求を満たすため、He177にはそれまでにない脅威のメカニズムを満載した。
リモコン機銃や機体表面と一体化させたラジエータ(これはHe100などと同様)、そして双子エンジンといったものである。
そして、すべて最先端のテクノロジーの結集だったが、すべてが満足に動かなかった。
リモコン機銃
機内から遠隔操作されるので人間が入る必要はなく、したがって空気抵抗を少なくできる利点がある。だが、実際にはよく故障したし、また直接狙うわけではないので、命中精度は低くなりがちになってしまう。
このころ実用化に成功した機にはB-29があったが、こちらも同様の理由でボツになりかけた事がある。
表面冷却装置
ラジエータを機体表面と一体化させたもので、別に配置すると高くなりがちな空気抵抗を抑える効果を期待できる。だが軍用機ならば、敵弾を受けることは最初に想定されるべきであり、表面と一体化させたことでラジエータに被弾しやすくなるという欠点がある。
そしてラジエータに被弾するということは、即エンジン停止(焼きつき)を起こして墜落することになるので、わざわざ弱点を増やすこの方式は軍用機には向かない。結局は放棄され、通常そうであるようにラジエータを別に設けることになった。
双子エンジン
He177を欠陥機とした最大の原因がこのエンジンである。
この機はDB601エンジン2個を横向きに連結したもの(DB606)を採用しており、4発機でありながらも見た目は双発機同然となっている。この2つのエンジンの回転をギアボックスで統合し、ひとつの巨大プロペラを回すことで空気抵抗軽減・推進効率上昇を目指した構造である。(もちろんエンジンナセルは一つで済む)
この類を見ない構造こそが、He177をアメリカ大陸まで届かせる秘密だったし、同時に不調の理由の大半を作ることになった。スペック重視のしわ寄せが見事に現れたのである。
Dance on Line of Fire
19937年11月、P.1041に初めてHe177の型式番号が与えられる。
この時、空軍省で幹部とハインケル社との対談が行われた。このとき急降下爆撃能力の追加が求められたが、ハインケル側は早くも難色を示している。(結局は空軍の要求が通って追加される)
また試作機が完成し、飛行試験を行うに従って、特徴だったエンジンが早くも問題になり始めた。
Engine's on Fire
エンジンにトラブルが多い。それがHe177の問題だった。
しかも、問題は二つ。
・エンジンが過熱し、よく火災を起こす。
・エンジン同士の回転差が接続するクラッチに負担をかけ、よく破損する。
エンジン過熱
これは、エンジンカウリングの設計で空力を最重視していたため、内部に余裕がほとんど無いことに起因している。中央部に熱がこもり、排熱が追いつかないのだ。これでエンジンの潤滑油が発火点に達して火災を起こしてしまう。
当時のハインケルによくあったように、He177も設計がかなり凝っていた事が裏目に出てしまった。しかも2つのエンジン間には軽量化のために防火壁が設けられておらず、どちらかが火を噴くと、程なくして両方とも火災に至ってしまうのだった。
またエンジン室内部の設計のせいで、オイル配管と排気管がかなり接近しており、この熱が伝わって発火してしまう事もあった。おまけに、燃料配管もエンジンに近いので漏れると発火につながった。
こうした問題解決にはエンジン設計の変更しかなく、DB606の運転実績から改良したDB610(DB605の2連装)を採用することで信頼性を上げた。
接続クラッチ
最後まで問題となったのが、2つのエンジンを接続するクラッチだった。
解説の前に、MT車でできる「遊び」を紹介しよう。
変速の際、もし速度とエンジン回転をぴったり合わせることが出来れば、クラッチを使わずともギア接続ができる。当然ながら、この時に少しでも回転がずれていれば激しい振動を起こし、場合によってはエンジン停止を招くことになる。そうでなくとも、回転差を緩和する仕組みを介さない変速はトランスミッションに負担を掛けてしまう。出来るのは相当な熟練に限られることになるだろう。
そして、ちょうど同じことがHe177のエンジンカウリング内でも起こる。二つのエンジン回転差がクラッチに負担をかけ、生じた衝撃に耐えられなくなって破損してしまうのだ。エンジン火災は原因特定・対策である程度対処できたが、この問題だけは最後まで解決のメドもたたなかった。
ただでさえ中央部が冷えにくい上に、当時の技術では固体同士のバラツキがどうしても出てしまう。そんな中では、いくら航空機関士がうまく調整するにしても、エンジン温度や水温、回転計を見たうえ、その日の調子を加味して空燃比や燃料流量などを調整する必要があったので、それはもう扱いが難しい事になってしまうのは当然のことだった。
『格納庫の女王』
そんな理由もあって、機体の生産はともかく、エンジン供給は優先順位が下げられて、エンジンなし(「首なし」とも)機体が工場で列を作ることになってしまった。それでもなんとかやりくりを試み、ようやく実戦配備に就いた頃には1942年になってしまっていた。初飛行そのものは1939年に成功していたのだが、上記のような理由で部隊編成は遅れに遅れ、ただでさえ定数も満たさないのに
、その上エンジン・クラッチの調子がどうにも怪しい。
そんな機が激しい実戦で生き残っていけるかというと、やはり厳しかった。損害こそJu88やHe111などよりも少なかったが、それはそもそも目標まで飛べた機が少ないからで、wikipediaのHe177中にある例からとると、スタインボック空襲に参加した13機中、1機は離陸中止し、8機はエンジン不調で引き返したという。残りの機のうち2機が撃墜されたとされているが、13-(8+1)のうち2機が撃墜されているのだから、本当に目標まで飛べた機のうち、半分が撃墜されているじゃないか。
ただ、そんなこんなで現場でも試行錯誤を続けるうち、1944年後半には搭載量と技術面で優れた機体として最も信頼できる爆撃機となっていたという。まあ、他が残ってなかっただけのような気もするが。そして、当時のドイツ空軍機の例にもれず、肝心の燃料が尽きていて活動できず、活躍もまたさっぱりなのだった。
女王のホント
ただし調子の良し悪しを改善し、性能がよくなっていたのは本当のようで、戦後イギリスがテストしたところによるとかなりの性能を発揮したようだ。4発機にしては操縦かんも軽く、双発機のような運動性を発揮したという。一式陸上攻撃機もそうだが、どうやら戦争で使おうとしたのが間違いだっただけらしい。
復活のグライフ
運用初期にはすでにエンジンの問題は明らかになっており、この問題を解決するために改善策がいくつも研究された。そんな中、採用されたアイデアが『エンジン二つでプロペラひとつを回すバカを止める』というもので、He177BとHe277、He274がそれぞれ設計された。
だがHe177Bは空襲で失われ、He277は戦局の悪化とともに中止される。残るはフランスの元ファルマン社工場に委託したHe274だけだった。こちらは1941年に委託されたが43年まで着工されず、完成した頃にはすでに連合軍が目前に迫っていた。ハインケル社開発要員はただちに帰国させられたが、機体は各種トラブルのため飛行不能。仕方なく機を破壊し、置き去りにするより他に無かった。
こうしてHe177派生機はすべて実用化に至らず、無茶苦茶な要求仕様に左右されるがままだった爆撃機は終わった。ゼロ戦でもそうだったが、無茶苦茶のワリは必ず出てくるものである。
マルセイエーズのグライフ
なお、破壊されたHe274は戦後に修理され、フランス軍の標識をつけて各種エンジンテストに用いられた。ここで得られたデータが戦後の航空機開発に生かされ、例えばコンコルドにつながるフランス製航空機の歴史を作っていくのである。
まとめ
ここまで酷い話ばかりになってしまったが、He177は難しい要求仕様に正面から挑み、こちらには見事勝利したことを忘れてはならない。
悪いのはそれを使うすべを完全に忘れ、ただメーカーに無理難題をふっかければどうにかなる、と慢心したヒトラー(と一部の軍上層部)である。結果としてドイツ爆撃機は機種ばかり多くなって数は五月雨となり、肝心の戦果はどこ吹く風、となってしまった。おまけにそれぞれのメーカーが同じような機を多数試作することになり、ただでさえ少ない資源を浪費してしまうのだった。
逆方向の「A爆撃機」
なお、アメリカでもA爆撃機計画と同様の計画が進められており、こちらは『アメリカ本土からドイツを直接空襲する』というものだった。A爆撃機計画では途中の試算により「エンジン6基の爆撃機が必要」としていたが、見事にその試算に合うものになった。ナチスドイツでの計算の正しさは証明されたのだった。