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庭園の編集履歴

2015-01-29 04:13:10 バージョン

庭園

ていえん

鑑賞および遊興・休息などのために一定の範囲の土地を美しく修景した場所

【庭園】の定義

 鑑賞および遊興・休息などのために一定の範囲の土地を美しく修景した場所。

 と違い、特定の建物に付随するものとは限らない。庭園だけで設計されることも少なく無く、面積もさまざまである。地域および時代により特徴的な様式があり、同じ地域でも時代により様式や特徴が異なる。植物を使って修景されるのがほとんどであり、日本庭園の枯山水のようなものは例外と言える。

 庭園には用途があり、それに沿ったデザインがなされ、必要な設備が設えられる。歴史的に見れば、その時代ごとの理想郷や楽園が再現される傾向にあり、現代でもそれはうかがえる。


歴史

庭園文化の始まり

 当然のことであるが、植物を用いることが多いため農耕文明の興ったところで庭園文化は誕生した。

 古代エジプトで造られた庭園は、中央に長方形の池があり、それを囲うように樹木が植えられたものである。参考画像:テーベの18王朝時代(紀元前1570年頃〜紀元前1293年頃)の壁画 池では魚や水鳥が飼われ、スイレンやパピルスが植えられていた。樹木はイチジク・ナツメヤシ・ザクロ・ブドウなどの果樹のほか、木陰をつくるアカシアなども植えられており、アネモネやケシなどの草花も栽培されていた。神殿の庭園には宗教儀式のために使うハーブや花・野菜を生産するための農園も付属していた。

 こうした庭園を持てるのは王侯貴族や神殿などの裕福な上流階級であったが、庭園や庭師を意味する単語があるので、そこで働く人は少なく無かったようである。古代エジプト人は庭園を愛した。庭園のミニチュア模型を作って墓に入れる人もいたほどだった。古代エジプトの庭園は理想郷の再現であり、その後の西アジアの庭園様式の源流になったと考えられている。

 西洋の伝世の文献記録に残る最初の庭園は、新バビロニア(カルデア)王国の王、ネブガドネザル2世/ナブー・クドゥリ・ウツル2世(Nebuchadnezzar/Nabû−kudurri-uṣur、在位紀元前605年〜紀元前562年)が、緑豊かなメディアから迎えた王妃アミュティス(Amytis)を慰めるために造らせたとものされる。いわゆるバビロンの空中庭園である。この庭園は高くした人工地盤上に築かれ、樹木や草花で彩られたばかりでなく、池や水路も巡らされていたようである。

 空中庭園とされる遺跡は2ヶ所が考定されているが、徹底的に破壊されているためどちらなのか決着はついていない。記録にしてもネブガドネザル2世からずっと後の、紀元前2世紀に古代ギリシアの数学者・フィロンが世界の7不思議に選んだものなので、その記述もどの程度信用できるのか疑わしい。


 中国の庭園は御狩り場のようなものから始まったらしい。これは自然の草原や森林を(多くの場合皇帝や帝王専用の)御狩り場としたものであって【苑】の字で表されている。これと同時に盗難や獣害を防ぐために囲いを作って、そこに作物を植えることもおこなわれ、これは【園】の字で表されている。

 西周時代(紀元前1046年頃〜紀元前771年)に原型が編まれたと考えられている詩経(中国最古の詩集)に庭園を詠んだものがあり、池では魚が飼われていたようである。おそらく今日的な意味での庭園が造営されるようになったのはこの頃からのようで、池を掘って、その周囲には自然の林を模して樹木が植えられた。果樹や野菜の他、花木も植えられていた。初期の記録のなかでも殷王朝(紀元前1600年〜1046年)の末に登場する酒池肉林は有名である。

 その後、秦(紀元前221年〜紀元前207年)の始皇帝(在位紀元前246年〜紀元前221年)は神仙郷に憧れて徐福に不老不死の薬を取らせに行った伝説は有名だが、憧れるあまり宮殿に島のある池を作って、そこを蓬萊島に擬した。池を東海と見るために岸には鯨の石像をも造らせたと言う。これは神仙式庭園の原型となり、中国はおろか中国の文化的影響を受けた地域に伝わり、朝鮮半島を経て日本にも伝播した。形態的には現代にも影響を及ぼしている。

 漢王朝(紀元前206年〜紀元220年)の武帝(紀元前156年〜紀元前87年)は庭園を造らせている。この庭園(上林苑)は中国史上最大規模で一周130〜160キロにも及んだ。太液池という池には神仙の住む3つの島を模した島を造らせて神仙式庭園を継承した。それだけでなく2千種余りの植物が栽培されたと言う植物園・南方の植物を集めた一種の温室だったという扶茘宮(ふれいきゅう)・天文だ・ドッグレース場・馬の曲芸場・宮廷音楽を聴くための音楽堂などを備えていたとされている。またこの時代には皇帝だけでなく、貴族も庭園を造るようになり庭園文化が広まりを見せた。

 漢王朝崩壊後の魏晋南北朝(220年〜589年、わかりやすくいうと三国志の時代がこの頃)の間、各地に散った士大夫や官僚などは乱世を嫌った。彼らの願望と老荘思想が合致して、山林などの自然風景やのどかな田園への郷愁に向かわせて、各自の住まいや寺院などに池と流れのある、ウメやモモなど花木や果樹・松・竹・キクなどの草花を植えた庭園を造った。書聖と呼ばれる王羲之が蘭亭序を書いたのも、この混迷の時代に造られた庭園であり、この自然美を尊ぶ林泉式庭園(文人庭園)へと発展してゆく。

 

その後の継承と発展

 帝政ローマ(ローマ帝国)では西アジアの影響を受けつつも独自の庭園文化が発展した。紀元前60年頃に造営されたルクルスの庭(これはペルシャ風の庭園だったと伝えられている)を皮切りに、皇帝や富豪はローマ郊外にヴィラと呼ばれる別荘を建てて庭園も造った。

 池が掘られ、その周辺に月桂樹やオリーブ・バラ・イトスギなどの花木や果樹が植えられ、楽園をイメージしたのはエジプトやメソポタミアの庭園と同じだが、イタリア半島は広大な平地を欠くため丘を数段のテラス状に造成して平地を造り、庭園を造った。多くは左右対称だが非対称になる例もある。この時代の庭園の代表としてはハドリアヌスのヴィラが有名なものである。この帝政ローマ時代のヴィラは、ずっと後のルネサンスにおいて庭園デザインの参考とされヨーロッパの庭園デザインに大きな影響を及ぼした。

 ローマのヴィラを持てるほどでもない、やや裕福な市民は自宅の中庭を美しく整えた。中庭は左右対称のデザインで、柱廊に囲まれており、応接間や食堂に面していた。低い生垣や花木、草花やハーブ・野菜が栽培され、可能であれば池や噴水などが配された。庭の最も美しい時期に宴を張って、一番眺めの良い位置に席を占めるのは名誉なことだった。ポンペイでは当時の庭園がそのまま発掘されており、いくつかは復元されている。

 ローマが崩壊した後のヨーロッパ中世には、他の文化・技術同様、庭園文化も著しい退行を余儀なくされたのだが、それでも修道院や各地の有力な領主、ある程度安定し繁栄していた西アジアにその文化は受け継がれた。西アジアに伝播した庭園文化は【ペルシャ式庭園】として発展し、イスラム帝国とその後継の帝国・王国によって中近東はもとよりインドなどの南アジア及び北アフリカ、イベリア半島の各地に造られていった。これもまたヨーロッパの庭園に影響を与えたのである。

 その後の各庭園様式については下記の各項目を参照。


 中国では隋(581年〜618年)・唐(618年〜690年,705年〜907年)王朝に庭園文化が最初の絶頂を迎えた。皇帝達は基本的に神仙式庭園の流れを汲んだ広大な庭園を造営したが、過去のそれとは違いこの世の理想郷をイメージしたものに俗化していた。2代皇帝の煬帝(在位:604年8月21日〜618年4月11日)は西苑という中国史上2番目に大きい庭園を造営して神仙式庭園を造ったが、龍鱗渠(りゅうりんきょ)という水路も合わせて造り16の庭園をその水路沿いに造った。そこには豪華な建物を建てて草木を植えて小庭園として十六院と呼び、各院には妃を1人と美女20人を住まわせていた。これ以外にもいくつもの池が設けられ、それらは水路で繋がれていて船で行き来できるようになっていたという。唐ではそこまで広大ではなかったが、長安城を上回る面積の土地に24の建物群が建てらた庭園が造営された。皇帝がボートレースを楽しめる池や、馬に乗ってポロに似た競技をする球技場・馬の曲芸場・氷室・果樹園・景色を楽しみ詩を詠むための亭(あずまや)などがあった。

 唐王朝下での個人が造った庭園には2タイプある。ひとつが世襲の貴族や官僚の庭園で珍重された江南地方の奇岩や珍しい樹木・いくつもの建物を建てた豪華絢爛な庭園で、もうひとつが科挙出身の文人官僚が築いた自然風景を重んじた庭園で、風景と調和するように建物はあっても素朴なものが多かった。中国の庭園は権力と資金にものを言わせた豪華絢爛な庭園と、自然美を重んじる文人の庭園の2つが複雑に絡み合いながら発展し、日本も含む周辺の地域へと波及していった。

 その後の各庭園様式については下記の各項目を参照。


日本庭園(露地、回遊式庭園など)

 和風庭園ともいう。

 代表例:飛鳥浄御原宮庭園遺跡、平等院庭園、西芳寺庭園、大仙院書院庭園、待庵露地、後楽園、兼六園、龍安寺方丈石庭、偕楽園、無鄰菴、平安神宮神苑、東福寺方丈、足立美術館庭園


中国式庭園(中国古典庭園など)

 


西洋整形式庭園(イタリア式庭園、平面幾何学式庭園など)



風景式庭園(イギリス式庭園)



ペルシャ式庭園(イスラーム式庭園)

 西アジアおよび中近東を中心に発展した様式。インド・北アフリカ・イベリア半島に伝播した。壁で囲まれ、イスラーム化した後は庭園を4分割する水路と交点に置かれる池で特徴づけられる。

 代表例:パサルガダエ庭園、エラム庭園、チェヘル・ソトゥーン庭園、フィン庭園、アッバース・アーバード庭園、シャーザデー庭園、ドーラト・アーバード庭園、パフラヴァンプール庭園、アクバリーエ庭園(以上イラン)、バーブルの庭園(アフガニスタン)、タージ・マハル(インド)、シャーラマール庭園(パキスタン)、アルハンブラ宮殿庭園(スペイン)


関連タグ

築山石灯籠、太鼓橋、茶室 東屋石塔 パーゴラ藤棚)、アーチ噴水 テーブル 椅子、くぐり戸、パーゴラ

 借景 公園 美術館 庭師 園芸 農園

花壇 並木 日本庭園

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