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香取(練習巡洋艦)の編集履歴

2015-02-09 11:04:36 バージョン

香取(練習巡洋艦)

かとり

大日本帝国海軍の練習巡洋艦の一隻。

概要

日本海軍の練習巡洋艦である。香取型練習巡洋艦のネームシップ。艦名は、千葉県の香取神宮に由来している。


本型は、1938年度計画において2隻の練習巡洋艦を建造することになった。香取は1938年8月24日に、三菱横浜造船所で起工され、1939年3月31日に練習巡洋艦1番艦と2番艦にそれぞれ「香取」、「鹿島」の艦名が与えられるた。「香取」は同年6月17日に進水し、1940年4月20日に竣工した。建造費を節約するため、商船構造を採用している。また、同年5月31日には三菱横浜船渠で姉妹艦「鹿島」が完成した。


戦歴

2隻は竣工直後練習艦隊に編入、8月に昭和15年度の遠洋航海に出発し、江田島~大湊~大連・旅順~上海を歴訪する。しかし風雲急を告げ、9月20日に前期航海のみで中止が決定、これが日本海軍最後の遠洋航海となった。

香取は1940年11月15日に第1潜水戦隊旗艦となった。1941年5月1日には第六艦隊(潜水艦隊)旗艦となり、司令長官清水光美中将が乗艦した。11月24日に日本を離れた香取はトラック経由で12月5日にクェゼリンに着き、そこで太平洋戦争開戦を迎えた。大戦中は主にトラック泊地にあって潜水艦作戦の支援に当たった。


1942年2月1日、ヨークタウン級空母の2番艦「エンタープライズ」と1番艦「ヨークタウン」はマーシャル諸島とギルバート諸島に空襲を敢行した。「エンタープライズ」搭載機による魚雷攻撃はすべて外れたが、香取は至近弾と機銃掃射で死傷者を出し、清水中将も重傷を負った。2月9日にクェゼリンを出発、16日に横須賀へ戻って修理を受けた。3月16日、清水中将の後任として小松輝久中将が着任し、引続き香取を旗艦とする。 呉に移動後、4月16日に再び日本を離れ、4月23日にトラックに到着した。なお日本出発時は水上機母艦(甲標的母艦)「千代田」が香取に同航していたが、4月18日に米空母「エンタープライズ」等によるドーリットル空襲が行われたことに鑑み、千代田は香取と別行動をとった。 5月3日、香取はクェゼリンへ到着する。6月上旬のミッドウェー海戦では、指揮下の伊号第一六八潜水艦が空母「ヨークタウン」を撃沈している。 8月に香取は横須賀に戻ってドック入りし、それからトラックに向かった。トラックには1943年3月まで留まり、一度横須賀でドック入りした後5月には再びトラックに戻った。6月、第六艦隊司令長官は小松中将から高木武雄中将にかわり、引き続き、香取を旗艦とした。


最期

その後はクェゼリン失陥のため旗艦任務を解かれ、海上護衛総隊所属となるが、1944年2月17日に第4215船団を護衛しトラックを出航後、敵機の攻撃を受け損傷され、その隙に米戦艦「アイオワ」、米重巡「ミネアポリス」と「ニューオーリンズ」の砲撃により沈没した。

1944年3月31日、香取はトラック島空襲で沈没した「阿賀野」、「那珂」、「舞風」、「文月」等と共に、 香取型練習巡洋艦、軍艦籍から除籍された。


余談(継承艦「かとり」)

戦後、海上自衛隊の幹部候補生学校卒業後の初任幹部の実習訓練として内地巡航と遠洋航海を実施するための練習船「かとり」が1968年に就役した。(1998年除籍)

因みに後継艦はかしま型練習艦「かしま」(現役)である。



関連タグ

大日本帝国海軍 軽巡洋艦 練習巡洋艦 重巡洋艦

鹿島 香椎 アイオワ級

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