1917年就航、1944年戦没。
国家の威信をかけて建造された艦ではあったが、機関や主砲の配置に問題があり、幾度となく改装を繰り返した結果『艦隊にいるよりドックにいるほうが長い』、「欠陥戦艦」となってしまった。
太平洋戦争においてはほとんど戦闘に参加せず内地で練習艦として使われていたが、戦況の逼迫に伴い、レイテ沖突入作戦に投入された。
最期は姉妹艦の扶桑とともにスリガオ海峡で戦没。
設計図
基準排水量:30890t。
満載排水量:36000t。
全長:212m。
全幅:32.0m。
武装:45口径35.6㎝連装砲塔六基。
50口径15.2㎝単装砲塔十六基。
40口径8cm単装高角砲四門。
25mm三連装十八基。
朱式6.5mm機砲三門。
四一式短8cm砲外膅十二門。
装甲:水線部305㎜。
甲板86㎜。
主砲天蓋152mm。
速力:24ノット。
乗員:1389名。
「扶桑」との見分け方
扶桑との見分け方は三番砲塔の向き。
扶桑が前向きなのに対して、山城は後ろ向きについている。
また、この砲塔の向きに関連して艦橋の形状にも変化があるため、そちらで区別することもできる。
鬼の山城
この山城、しごきがすごいことでも有名だった。当時の言葉に「鬼の山城、地獄の金剛、音に聞こえた蛇の長門 日向行こうか伊勢行こか、いっそ海兵団で首つろか」なんてのや「地獄榛名に鬼金剛、羅刹霧島、夜叉比叡、乗るな山城鬼より怖い」などの言葉があった。そういった言葉ができるほど当時の海軍では(特に戦艦、重巡などの大型艦で)「教育」が熱心に行われていた。
特に山城と金剛は「横須賀の山城、佐世保の金剛」と戦慄され、日本帝国海軍における「しごきの東西両横綱」として知られる苛烈さだったという。
そして上記の標語(?)の中に二回も出てきて、かつ“鬼”だの“鬼より怖い”だの言われている山城だが、どんな「教育」が行われていたかというと以下の通りである。
- 新兵を二列に整列させたかと思えばその二列で殴り合いをさせる。
- 上記の殴り合いで少しでも手加減をすれば手加減した者が教官から思いっきり殴られる。
- 夕食が終わると下士官によって後甲板に呼び出され訓練のあり方や兵器の扱い方などのことで叱られ気合いを入れさせられる。
- 上記の下士官の説教が終わると古参兵が新兵の失敗を大げさに取り上げてぶん殴ったり精神注入棒などでお尻をぶっ叩く(これを私的制裁と呼んだ)。一応解散の号令で解散はするが上記の古参兵の「いびり」はその後もなおまだ続く。鬼の山城のゆえんである。
- 上甲板での「教育」のあと古参兵によって一番下の甲板(下甲板)に集められて古参兵の「いびり」がまた始まる。難癖をつけられるや否や精神注入棒、クランジパイプ(艦内至るところにある消火ホースの先端につける筒先のこと)、野球のバット、内舷マッチと呼ばれるモップの柄などでお尻を引っぱたかれたという。
- また、ストッパーと呼ばれる、短艇を引き上げるための柔らかいが丈夫な綱をムチ代わりに叩かれることもあったという。そして時にそれは男の大事な部分をも破壊したと言う。
また上記以外にも日常的な「教育」が加えられていたようである。