概要
本名は「村田長治」。
福山電波工業高校を経て、1967年のドラフト1位で東京オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)に入団。
1年目の1968年は調子が振るわなかったものの、翌1969年に頭角を現し、6勝を挙げる。1970年にはリーグ優勝を、1974年にはプロ野球日本一を、それぞれ経験した。
選手引退後は、福岡ダイエーホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)でコーチもつとめた。
ちなみに、選手引退した理由は「先発完投が出来なくなったから」であったらしく、後年に古田敦也とテレビ番組の企画で対戦した後の対談で古田に「今からでも現役復帰できるんじゃないですか」という発言に対して「先発出来ないからイヤだ」と答えていた(さすがに別の場所で古田に「まだ通じる気か」とツッコまれていたが、実際ワンポイントなら通用しそうなあたりなんともいえない。後に、「疲労が回復するのに時間がかかる体質であり中継ぎ・抑えの適性がなかった」と告白している。)余談だが、彼がコーチ時代のホークス投手陣は大変に不甲斐なかったので「(抑えられない投手たちに代わって)お前が投げろ」とヤジられたこともある。
マスターズリーグなどでは齢五十を過ぎてなお130㎞後半の速球を投げる(63歳で135kmを記録)など老いてその剛腕は衰えぬ球界の鉄人。
しかし、本人は140kmでないので、悔しいらしい。
プレースタイル
ゆっくり、かつ大胆なモーションで投げる「マサカリ投法」と、そこから繰り出されるノビのある直球とすさまじい落差のフォークボールが代名詞。入団1年目に自身の「上体が突っ込みすぎる」欠点に気づき、克服するために自らが編み出し、4年を掛けて完成させたという。
だが、あまりにモーションが遅すぎて、相手バッターに球種を読まれてしまうこともあった。
が、彼もそれに対抗して投球モーションの途中で握りを変えるという離れ業を編み出している。
「フォークとわかって構えていても俺には打てなかった」(野村克也)
珍記録
通算暴投数148は日本記録で、2位の石井一久の111個を30個以上も引き離している。
とはいえ、バッテリーの袴田英利捕手は彼のすさまじい落差のフォークをしばしばノーサインで取ってたらしいので、仕方ないといえば仕方ない。
実は、このバッテリーの投球の組み立ては基本的に村田が行っている。袴田の「一軍でやりたい」という望みに対し村田は「ならオレのフォークをノーサインで捕れ」と応じ、以後袴田の身体を張った捕球がゲームで見られるようになった。袴田が左手の指を骨折したことも何度かあったという。もちろん、村田もそんな袴田の捕球に絶対の信頼を置いている。