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787Bの編集履歴

2015-08-31 00:44:23 バージョン

787B

ななはちななびー

マツダが製作したレーシングカー 1991年のル・マン24時間レースで総合優勝を果たした名車である

概要

マツダは1970年からル・マンにワークス体制で参戦していたが、レギュレーションの変更により1990年をもってロータリーエンジン車の参戦が不可能になってしまうことになった。

それに向けて開発されたのが前身となる787である。


しかし、787はストレート重視でセッティングされていたため、サルト・サーキットのユノディエールというストレート区間に新たに設けられたシケインカーブに対応しておらず、マシンの不調もあってリタイア。旧型の767Bが20位という残念な結果に終わってしまった。


ところが、各社が新レギュレーションに対応したマシンが用意できないということになり、翌年の1991年もロータリーエンジンの使用が認められることになった。これが本当に最後のチャンスとなったマツダは787に大幅な改良を施し、787Bとして満を持して投入した。


優勝までの軌跡

1991年のル・マンは46台がエントリーしたが予選を通過したのはわずか38台という状況で始まった。最初はプジョーが飛ばしていたが、これは「どうせ耐久性が無いからとりあえずデータだけ取ってリタイアする」作戦だったためで、案の定マシンは全て故障した。それ以降はメルセデス・ベンツ勢がリードし、ジャガーとマツダがそれを追うという状況になった。ベンツは序盤で大きくリードして追撃をあきらめさせる作戦、ジャガーは燃費の問題でペースを崩さず他車が潰れるのを待つ作戦をとった。一方マツダは良好な燃費とペースで徐々に順位を上げていった。

このときマツダの戦闘力に気づいた2社は大慌てで情報収集をはじめた。


そして4位につけた787B 55号車はペースアップを開始。3位に浮上した。それに気づいたベンツもマツダ以上にペースを上げた。これはマネージャーのジャッキー・イクスの指示で、彼は「ドイツ人は下位とのマージンを必要以上に確保したがるから、こちらがペースを上げたら向こうもマシンに負担をかけてでもペースアップするだろう」と読んでいたからである。

そして案の定、ベンツはミッショントラブルで次々ピットインして1台がリタイア、もう1台が5位に転落した。


トップとなったマツダはその後も快調に走りペースを確保。最後もドライバーを交代させず、ジョニー・ハーバードを3シフト連続で運転させるという作戦をとった。

こうして787B 55号車は見事ル・マン優勝を果たした。ほかにも2台目の18号車が6位、前年型の787 56号車が8位に入った。

しかし、2時間以上も運転していたジョニーは激しい脱水症状で立つことができず、表彰台にあがることはできなかった。


現在でもル・マンで優勝した日本車メーカーはマツダだけで、ロータリーエンジン車としても初、ほかにもカーボンブレーキ搭載車としても初でありまさに快挙であった。


その後の787B

ル・マンで優勝した55号車はマツダ自身の手で動態保存されており、時折サーキットイベントなどで走行している。普段は広島県にある「マツダミュージアム」に展示されている。


2011年のル・マン再走

2011年、優勝から20周年を迎えた787Bはル・マン主催者側からデモ走行が提案された。1台だけでのデモランは異例の待遇だった。しかし、この頃の55号車は老朽化が激しく、ほとんど走行できるような状態ではなかった。マツダはこれに応じるかギリギリまで決まらなかったが、GOサインが出たのは東日本大震災の一週間前であった。

787Bはフルレストアされ、優勝当時の性能を取り戻し、ブレーキがスチール製になり、「がんばろう日本」のステッカーが追加された以外は当時のままとなった。


そして6月11日、ジョニー・ハーバードの運転で787Bは20年ぶりにル・マンを走った。

動画


ほかにも数台のレプリカが作られ、ル・マンをはじめとする各地で展示されている。


エピソードなど

  • 55号車のあのカラフルな塗装はスポンサーのレナウンが前年の惨敗ぶりから「こんなんじゃ勝てる見込みがない。ならば、とにかく目立て!」という指示から生まれた。
  • 787Bは前年の状況からほかの車両よりもレギュレーションは緩かったものの、排気量では他社よりも劣っており、787Bは常に全開で走行していた。
  • 優勝に貢献したジャッキー・イクスにマツダはボーナスを渡そうとしたが、彼は「私はマツダを優勝させるために契約したのだから、優勝したからといってボーナスを貰う理由は無い」と断った
  • レース終了直後の787Bを分解したところ、まだ500kmくらいの耐久レースならこなせる状態だったという。

関連イラスト

June 23, 1991熱き涙を。


関連タグ

MAZDA グループC

wikipediaの記事(787)

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