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光GENJIの編集履歴

2015-11-18 11:01:09 バージョン

光GENJI

ひかるげんじ

昭和~平成初期の日本の男性アイドルグループ。ローラースケートを履いて歌い踊るパフォーマンスで有名。

1987年8月19日から1995年まで活動した男性アイドルグループ。ジャニーズ事務所所属。


当時の人気振りを最近の若い衆向けに説明すると「Hey!Say!JUMPSMAPを足して10倍してもまだ遠く及ばない」(本人たちですら「凄かった」と表現)。つまりは社会現象である。中居正弘はバラエティ番組で彼らの話題が出るたび繰り返しその凄さを語っている。あの世代の若者の大半がローラースケートで颯爽と踊る光GENJIに魅せられ、憧れたのである。

また、笑いや親しみやすさを重視したバラエティ向けの活動も行う現在のアイドルとは違い、歌とダンスと若さのみで駆け抜けていった彼らは「最後の男性アイドルグループ」「伝説のスーパーアイドル」と呼ばれることもある。


1987~88年

1987年から1988年前半までの全盛期は飛鳥涼が提供した楽曲の良さもあり、ザ・ベストテン7週連続1位獲得など快進撃を続けた。この初期の3曲はブラスバンドの定番楽曲と化し、プロ野球、高校野球の応援歌として今日でも演奏され続けているからその凄さは推して知るべしである。ベストテンのほか歌のトップテン夜のヒットスタジオなどでは登場するたびにゴーカートに乗って歌ったり、そうめん流しをやったり、走行距離が測定されたりといろいろな企画が行われていた。この後、赤坂晃佐藤敦啓の労働基準法抵触問題などでやや勢いが衰えるものの、「発電ができる」とまで言われたファンの熱気は変わらず、1989年にかけて年間シングルチャートトップ3独占、デビュー以来8作連続オリコンシングルチャート1位などといった記録を打ち立てた。


1989年

暴露本騒動が発生する、バンドブームが起こるなどしてやや勢いが衰えたものの、アルバムにおいて各メンバーがソロ曲を歌い出すなど活動の幅が広がりそれまでほぼ諸星和己一人で保たせていた人気が分化し(とはいえ、当時16トントラック数十台届いたバレンタインチョコのパーセンテージは諸星が98%、他の6人で20%という比率であった。合計すると118%となり、120%に若干足りないが、残り2%をスタッフがおいしくいただいたかどうかは定かではない)さらにファン層が拡大する。夏には「太陽がいっぱい」で8週連続シングル発売という恐ろしい企画を行い、叩かれながらも大成功を収めてしまっているから凄いものである。また、この年本人たちとは全く関わりのないところではあるが3rdアルバム「Hey!Say!」が第13回アメリカ横断ウルトラクイズの問題に採用されている。


1990年代

1990年にはミュージックステーションでのご成婚慶祝特別企画において油壺マリンパークイルカと共演したり(6月22日)、デーモン閣下が大暴れしスタジオ破壊を行った際にはこれを手伝ったり(7月)、バハマ(虹色夏物語。後におはスタで有名になるレイモンド・ジョンソンが共演。ただし白塗りのため本人と判断しづらい)やウォルトディズニーワールドを訪れたり(秋季、撮影のため出演を数回欠席している)と印象に残る活動をしている。12月にはミニアルバムも発表したが、限定生産であったため今日ではほぼ入手不可能となっている。

1992年はバルセロナオリンピック、1994年はリレハンメル冬季オリンピックの応援ソングも担当した。


1995年の全国ツアーを最後に解散。現在は内海光司と佐藤アツヒロのみがジャニーズ事務所に留まっている。このうち佐藤は年末恒例のジャニーズカウントダウンライブに必ず参加するなど現在でも精力的に活動を続けている。


メンバー

内海光司 大沢樹生 諸星和己 佐藤寛之 山本淳一 赤坂晃 佐藤敦啓



関連タグ

ジャニーズ ローラースケート 80年代アイドル

勇気100% - 代表曲。後に多くのジャニーズ系のグループによってカバーされている。

光源氏 - グループ名の由来

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