概要
坂上田村麻呂の死を惜しんだ嵯峨天皇により、坂上田村麻呂の遺品の刀櫃の中から一振りの刀剣を選び、それを御府に納めたという。
平安時代には醍醐天皇が行幸に出た折、腰興の御剣として持ち出された。その際に鞘の石突きが無くなっていたが、岡の上で「皇室伝来の御剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突きをくわえて来たので、元に戻り喜ばれたという。
この剣は敦実親王も佩刀とし、雷鳴が轟くと独りでに鞘走るという霊威を示したため、親王は片時も手放さなかった。
その後、関白藤原師実の手を経て白河法王に献上された。この頃には雷鳴に呼応することはなくなっていたが、師実は剣を畏れて自ら抜くことはなかった。
藤原忠実が若い頃に不審がって人に抜かせたところ、剣の峰に金象嵌で坂上宝剣と銘があったという。
人に抜かせたのは師実であり、白河法王に献上したのは忠実であるとの文献もある。
鎌倉時代、後嵯峨法王は院政をしながら後深草天皇を上皇とし、弟の亀山天皇を即位させた。
しかも後深草上皇には熙仁親王(後の伏見天皇)がいたが、亀山天皇の世仁親王(後の後宇多天皇)を二歳でありながら皇太子とした。後嵯峨法王は亀山天皇を愛し、その系統に皇位が受け継がれることを望んでいた。
後嵯峨法王が亡くなられる直前、意向により朝廷守護の宝剣として坂上田村麻呂から伝来した坂上宝剣を内裏に奉られ、亀山天皇に伝えられた。
この事には母大宮院も関与していたことを後深草上皇は悲しみ、太上天皇の尊号を返上し仏門へ入る決心をした。この事を知った執権北条泰時は後深草上皇に同情した。
これが南北朝時代への最初の出来事となる。