概要
生没年 建保3年(1215年)~文永9年(1272年)2月11日
名越流・北条氏の家督を継いだことから「名越時章」ともいう。鎌倉幕府・2代執権・北条義時の次男・朝時を父として生まれる。兄に「宮騒動」の首謀者として失脚、伊豆に流される名越光時、弟に「二月騒動」においてともに滅ぼされる教時らがいる。
名越流・北条氏
父・朝時は鎌倉幕府・2代執権・北条義時、正室・姫の前の次男として生まれたが、北条氏の家督を継ぎ、執権として幕府の実権を握ったのは朝時の異母兄・泰時であった。
朝時はこのことに不満を持ち、反得宗の意を生涯を持ちつづけることとなり、その遺志は、当然、朝時の長男・光時、時章の弟・教時に強く受け継がれることとなった。
宮騒動
仁治3年(1242年)6月15日、執権・北条泰時が死去し、後任には泰時の孫・経時が19歳で就任、しかし、このとき、自我に目覚め権力欲を持ちはじめた4代将軍・九条頼経には名越流・北条氏の当主・光時や三浦氏、千葉氏ら有力御家人が集まり、幕府上層部との対立が鮮明となった。
寛元2年(1244年)、この不穏な動きに執権・北条経時は将軍・九条頼経を強引に退かせ、頼経の子で、当時、わずか6歳の九条頼嗣を次の将軍に据える強攻策をとったが、しかし、頼経は新将軍・頼嗣の後見として鎌倉にとどまりつづけた。
寛元4年(1246年)閏4月1日、病を得て出家していた前執権・北条経時が23歳で死去、跡を継いだのは経時の弟・北条時頼であった。
この機に乗じて時章の兄・光時を含む頼経派の有力御家人は前将軍・九条頼経を奉じて反得宗の動きを見せるが、すぐに鎮圧されて前将軍・九条頼経は京に送り返され、兄・光時も所領を没収され伊豆に配流されることとなるも、時章・教時兄弟は処罰を免れた。
二月騒動
以後、時章は得宗・北条家に協調的な姿勢を見せ、評定衆、引付頭人などを歴任したが、文永9年(1272年)2月11日、急進的な反得宗の意を示す弟・教時に謀反の嫌疑をかけられたことにより、自邸を当時の執権・北条時宗の兵に襲われて殺害された。享年58歳。
なお、この直後、時章は謀反に無関係であることが判明、時章邸を襲った5名は処刑され、子の公時は評定衆、孫の時家・鎮西探題に任じられるなどして名誉を回復、要職を歴任した。
種子島氏
鉄砲伝来で知られる種子島時尭の家紋は「北条氏」と同じ「三鱗」であるが、元は九州に所領のあった名越流・北条氏の家人であったと伝えられている。