概要
ベレットでどうにかこうにか乗用車メーカーとしての地位を築いたいすゞ自動車が、その上のクラスの乗用車に「再」進出しようと考えた際に、イタリアのコーチビルダーであるカロッツェリア・ギアにデザインなどを依頼した。そこから生まれた2つのアイデアの内のひとつを形にしたのが、この117クーペだった(ちなみにもう一つも、ある程度アレンジした上で形にしているが、それがベレルの後継車になるフローリアンであった)。
デザインを手掛けたのが、かの有名なジョルジェット・ジュジャーロ。ちなみに、同じいすゞの2代目ジェミニもこの人が手掛けている。
1966年3月のスイス・ジュネーブモーターショーでベールを脱いだ。ただし市販化は大幅に遅れ、1968年12月になってからであった。しかも、量産化しにくいデザインだったため、手作業にせざるをえず、その結果一ヶ月の生産台数はがんばって50台くらいしか出来ず、その上当然ながら価格は172万円と、当時としては恐ろしく高価な車となってしまった。
ただし、いすゞ初のツインカムエンジン(当初は1600ccだった)を搭載、内装に楠のパネルを装備するなど、価格に見合った装備をそなえてはいた。だがその一方で、ヂーゼルエンヂンを積んでしまったものも存在した。いくらヂーゼルエンヂンがいすゞのお家芸だからって・・・・・・・・・・。
1970年には、日本初の電子制御燃料噴射装置を装着したエンジンを搭載したものが登場している。
いすゞは1971年にアメリカの自動車メーカーのGMと提携したが、その際に資金と技術の援助をそこそこ得られたことで、量産化に目処を立てることが出来た。
それに伴う改良を加えた上で、1973年3月に改めて発売された。なお、ジュジャーロデザインの車体は基本的に手を加えられてはおらず、これにはGMも驚いたという。
エンジンはツインカムエンジンを含め1800ccに統一された。
ただその一方で、量産化の代償として、内装はかなりセコくなってしまった。
1977年にヘッドライトを丸形4灯から角型4灯に変更したが、これに関しては賛否両論だったという。1978年には下級グレードを除き全てのエンジンが2000cc(当然ながらツインカムエンジンも対象)に引き上げられた。そして1979年12月、モデル最終盤になってヂーゼルエンヂン搭載車が復活してしまう。
1981年6月、後継車のピアッツァ(実はこの車の原型もジュジャーロがデザインしたもの)にバトンを渡す形で製造・販売を終了した。総生産台数は86,192台。なお、1978年まで1台も廃車が出なかったという。
関連イラスト
(ハンドメイド時代)
(後期〔角目〕・2000ccのガソリン車は、☆☆〔ダブルスター〕シリーズと呼ばれる)