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F2Aの編集履歴2016/06/19 22:03:59 版
編集者:フィッターR
編集内容:全体的に加筆修正。 日本に鹵獲された機体やVL フムについての内容を追記。

F2A

えふつーえー

アメリカ海軍の第二次世界大戦初期に活躍した艦上戦闘機である。イギリス・ベルギー・オランダに輸出され、日本軍機とも戦火を交えた。旋回格闘戦では日本軍機の敵ではなかったが、のちにフィンランドに輸出された機が戦果を残している。

はじめての〇〇

アメリカ海軍は1936年、

艦上戦闘機を近代化すべく、単葉・引き込み脚・密閉式コクピットを持つ戦闘機を要求した。

ブリュースター社はこの要求に対し、XF2A-1試作機を提出して応えた。

(グラマン案はのちにF4Fへと発展する)

XF2A-1は1937年12月に初飛行、翌1938年1月から評価が始まっている。同6月にはF2A-1が66機発注され、更に翌年(1939年)から引き渡しが開始された。ただし実際に納入されたのは55機であり、空母「サラトガ」の海軍第3戦闘航空団(VF-3)に10機が配備された。

残りの44機はフィンランドへの支援物資として各種制式装備などを外し、もしくは格下げ品に交換した非武装のB-239として輸出された。(残り1機の行方は謎)

単葉・引き込み脚・密閉式コクピット

当時、1930年代には近代的な設計とされていた3点セットである。

・単葉:主翼は一枚だけ。複葉機よりも揚力では落ちるが、空気抵抗が少なくなる。

・引き込み脚:車輪を収納可能。空気抵抗が少なくなる。

・密閉式コクピット:コクピットのまわりを完全に囲っている。空力の乱れを抑えられる。

どれも設計や、機器の発展が無ければ出来ない事である。中でも車輪については引き込み装置の軽量化・信頼性の向上が必須であり、どの国も苦心を重ねて完成させていった。

改良と困難の山道

1940年9月、エンジンの性能強化などを含んだF2A-2の引き渡しを開始。(43機)

1941年7月、防弾装備を拡充したF2A-3が引き渡される。

当時、すでに枢軸国の戦闘機に対抗できないことが判っていたためか輸出用に回され、イギリスベルギーオランダへ売却された(ベルギーは受領前に国土がドイツに占領されてしまったため、ベルギー向けの機体は全てイギリスが受領している)。これらの機体は、本土が戦火に晒されているために高性能機を回せない、地中海や東南アジアといった海外に展開する部隊に配備された。なお、イギリス空軍向けの機体には「バッファローMk.Ⅰ」という名前が付けられている。

言ってしまえば数合わせ用であるが、当時は日本の戦闘機があまり脅威とみなされていなかったことも理由のひとつと言われている(実態を見ても、輸出型F2Aが導入された1941年始めごろは、零戦はデビューしたての新鋭機であり、一式戦闘機はまだ正式採用すらされていなかった)。

配備されたイギリスオランダのバッファローはご存知の通り、日本の一式戦闘機や零戦により大損害を負っている。さすがに旋回格闘戦では劣勢を否めず、その鈍重さ・そのスタイリングから『ビヤ樽バッファロー』と呼ばれた。最後の実戦参加は1942年6月、アメリカ海兵隊VFM-221(第221海兵隊戦闘航空団)がミッドウェー海戦に参加している。日本ゼロ戦に対し、果敢にも格闘戦を挑むが19機中13機を失う損害を出している。

ちなみに、イギリス・オランダが運用していた機体の中には、無傷のまま地上で日本陸軍に鹵獲された機体が何機か存在していた。これらは日本本土へ送られ性能テストに回された後、敵機役として映画に出演したり、陸軍飛行学校校長の自家用機になったりと、数奇な生涯を送ることとなった。

いすれにせよ太平洋では『強い戦闘機』とは評価されていない。これはパイロットがF2Aが本来得意とする一撃離脱戦法を使わず、当時の定石である格闘戦に固執していた事も大きい。

これ以降、アメリカでは機種が更新されてF4F、さらにはF6FF4Uが配備されていく事になる。すっかり陰に隠れてしまったF2Aだが、今度は予想もつかない方面で注目される。フィンランドに輸出されたB-239が思いもよらぬ活躍を見せるのだ。

ソ・フィン戦争とバッファロー

 1939年11月~1940年3月12日にかけて起こった第1次ソ・フィン戦争の結果、フィンランドはソ連に領土を奪われてしまった。この後、フィンランドは軍備強化の一環としてF2Aを44機、スウェーデンを経由して輸入したのだ。フィンランド空軍に輸出されたこのB-239(F2A輸出型)は独ソ戦開始とともに起こった第2次ソ・フィン戦争において目覚ましい活躍を見せている。撃墜/損失の比は15機の損失に対して444機のソ連機を撃墜するという驚くべきもの。ゲリラ的戦術をとり、「2〜3機撃墜したらあとは逃げる」ことを徹底したことや、相対したソ連軍は装備も人員も二線級だった(一戦級の部隊は対独戦に回されていた)ことがこの成果につながったともいわれる。

B-239は『空の真珠』と称えられ、戦争中はとても大切に扱われた。例えば敵地に不時着した機体(機体番号:BW-365)を奪還するため、陸軍が越境して回収に向かった例もある。

この機は修理後にニルス・"ついてない"・カタヤイネンによりテスト飛行が行われた。

彼は悪運の強さが有名で、これまでも何度となく奇跡的な生還を果たしていた人物である(飛行機はそのたびに大破するが)。この時も修理が不完全な事から故障が発生し、緊急着陸を試みるも縦に一回転して逆さまに転覆した。このような事故は非常に危険で、アリューシャンで不時着を試みた零戦も不時着に失敗し、パイロットが潰されて死亡している。

(この機は最初に鹵獲された零戦となった)

だが彼は無傷で地上に降り立ち、駆けつける同僚や消防士に手を振って見せたという。当然機体は修理工場に逆戻り。いっぽうニルスは任務に復帰したとか何とか。

さすがにBf109が配備された後は二線級装備となったが、戦闘爆撃機に転身。敵がソ連からドイツに変わってからもB-239は戦い続け、ついには第二次世界大戦を最後まで戦い抜くこととなった。

パイロット達に愛された空の真珠がフィンランド空軍を退役したのは、1948年の事だったという。

メーカー純正以外の部品でB-239を修理する試みは積極的に行われており、中には撃墜した敵I-153の残骸から回収したM63エンジンを利用して修理された機体もある(このエンジンはB-239に元々搭載されていたR-1820のライセンス生産品を改良したもので、言ってしまえば同じエンジンの発展型だったため問題なく搭載できた)。先のBW-365をはじめ、計5機に移植されたという。

空の真珠のイミテーション

B-239の性能にほれ込んだフィンランド空軍は、当然この機体を増強しようと考える。だが、太平洋戦争開戦に伴いアメリカが連合国として参戦してしまったため、枢軸国のフィンランドがアメリカから戦闘機を手に入れる事は不可能となってしまった。

そこでフィンランドは、B-239の国産化を決断。国産化と言えば聞こえはいいが、要するに海賊版を作ることにしたのである。

こうして完成した海賊版B-239、VL フムは、1944年に初飛行した。だが、金属資源の不足を鑑みて主翼を木製にしたため、重量が増加。当然飛行性能も低下し、結局はただの劣化B-239となってしまう。

さらにその頃にはより高性能なBf109の導入も行われていたので、今更B-239の劣化版を増やす必要もなくなり、90機の発注はキャンセル。完成した機体はわずか1機のみであった。

おわりに

さて、太平洋で苦汁を舐め、北欧の地で見事な捲土重来を果たしたF2Aだったが、どうしてそんなに強かったのだろうか?

それには性能の差を埋める要素がいくつもあった。

ソ連空軍は低高度での作戦が主で、空気密度が濃くて抵抗も大きくなる低空では、絶対的な性能差はあまり問題にならなかった。また、それこそ真珠のように大切に扱われ、優秀な戦術を実行に移せる勇敢なパイロットにも恵まれたことも大きいだろう。

だが何よりも、バッファローの目の前で赤旗を振ったからではないだろうか?

どっとはらい。

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