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吉田松陰

よしだしょういん

文政13年~安政6年 幕末の長州藩士。名は矩方、字は義敬、通称は虎之助・寅次郎など。松陰・二十一回猛士などと号した。

概要

長州山口県の生まれ。

6歳のとき山鹿流兵学の師範吉田家を継ぎ、兵学や史学を修めた。また長崎江戸に遊学して時勢に心を動かされ、佐久間象山に師事して洋学などを学び、攘夷論の立場をとる。

ペリー再来に乗じて海外密航を企てて投獄され、出獄後は萩に松下村塾を開いて子弟を教育し、幕末・維新に活躍する高杉晋作久坂玄瑞木戸孝允伊藤博文山県有朋ら多くの人材を輩出した。

老中暗殺計画を画策していた事が原因で、弟子達に「暗殺計画はやめてくれ」と説得されるも、彼は弟子たちを破門させた。

安政の大獄に際して捕えられ、刑死した。

しかし、この一件は捕縛された梅田雲浜が暗殺計画と関与して無い松陰を巻き込んだ説がある。

現に松陰は最終的に流罪で済むのを井伊直弼が攘夷派を潰す為にでっち上げた可能性がある。

『講孟余話』『留魂録』『松陰詩稿』『孫子評注』などがある。

人物

経歴を見ればわかるように、吉田松陰は長州テロリストの首魁というべき人物であり、長州藩きっての問題児クーデター計画、要人暗殺計画、海外密航未遂など、死罪判決になってもおかしくない行為を何度もしでかし、29年の人生で5回も投獄されている。それでも彼を支持する藩主の毛利敬親等のお陰で軽く済んだが、最後は老中暗殺を計画したかどで死罪に処せられている。

狂愚まことに愛すべし、才良まことに虞るべし。諸君、狂いたまえ。」という門人に向けた言葉はよく知られている。

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吉田松陰の編集履歴2016/07/07 21:38:12 版