概要
高校卒業後、1954年に南海ホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)にテスト生の投手として入団。翌1955年に怪我により、ショートに転向。この年から1軍でのプレーも果たした。だが、投手出身であったため、ショートの守備の際は悪送球が多かった。
1961年に当時の監督鶴岡一人の勧めで外野手(センター)に転向した。同年に42盗塁で盗塁王に輝くと、1965年まで5年連続盗塁王となり、リードオフマンとして杉浦忠、野村克也、皆川睦雄らと南海の黄金時代に大きく貢献した。
100メートル/11秒4の俊足と好守で鳴らし、「プロ野球のスピード感を変えた男」ともいわれた。
盗塁記録は福本豊に大きく水をあけられて歴代2位だが、元チームメイトの野村克也は、「広瀬は盗塁のための盗塁をせず、チームの勝利につながる場面でのみ盗塁を行っていた。もし記録にこだわっていればもっと伸ばせたはずだ」と語っている。
一方、福本の方も、監督の言い間違えが原因で予定より早く引退してしまっているので、本来であればもっと記録を伸ばせていたという声は多い。
広瀬と福本、どちらが真の盗塁王なのか、もし記録にこだわっていればどこまで伸びたのか…ファンの間では今も議論の種となっている。
引退後は南海ホークス、福岡ダイエーホークスで監督を務めた。