概要
7人兄弟の末っ子であったうえ、2歳の時に父親を亡くしてしまったため、経済的には苦しかったものの、中学校の頃から投手としての素材の良さは知られていたらしい。
山形県立米沢高校に進学出来たものの、2年生に進級する直前に米東東高校と米沢西高校に分裂、皆川は米沢西高校に在籍することになった。なお、米沢西高校は後に現在の米沢興譲館高校にに校名を改めている。
高校でも野球を続けたが、甲子園には届かなかった。特に夏の大会では、それこそあと一歩のところで逃してしまったことがある。
高校卒業後は立教大学への進学を考えていたものの、経済的事情から断念、前々から誘われていた南海ホークスのやっかいになる事になり、入団した。余談になるが、進学をあきらめた立教大学には、後にホークスでチームメイト(と言う名の内なる敵)となる杉浦忠が入学している。
ただ、最初の2年はそれこそ鳴かず飛ばずで本人は「ダメだこりゃ」と半ばあきらめていたのだが、親分がかばってくれたおかげでプロ野球選手として生き長らえる事となった。しかしその直後に肩を痛めたことでピッチングフォームをそれまでのオーバースローからサイドスローに変えたところ、肩の負担が減ったのか面白いように勝ち星を延ばすことが出来た。結果、8年連続を含めた通算12度の二桁勝利をマーク、1968年には31勝をマークした。ちなみに日本プロ野球では皆川を最後にシーズン30勝を挙げた投手は存在しない。
もっとも、当時のホークスは、杉浦やジョー・スタンカと言った、彼よりもさらに実力のある投手が次々と現れてしまったものだから、彼は長らく2番手に甘んじていた、のだが、皮肉なことに、それがかえってプロ野球選手としてさらに生き長らえる事が出来たのだった。
1971年のシーズン限りで現役を引退した。通算221勝は、なんとホークスの投手としての最多通算勝利数記録である。杉浦が(大学を卒業してからプロ入りした事もあるが)200勝出来なかった(ちなみに187勝)事を考えると、彼は「偉大なる2番手」だったとも言える。ちなみにこの2人とは同世代であり、皆川とは入団した年も同じだった、かのノムさんいわく、「杉浦は華やかな表看板、皆川は地味な縁の下の立役者やった」。
2005年2月6日、69歳でこの世を去った。
コーチ歴
阪神タイガース (1976 - 1977)
読売ジャイアンツ (1986 - 1988)
近鉄バファローズ (1991 - 1992)
三商タイガース (1998)
追記
コーチ時代は何かとつけてベテラン選手と折り合いが悪かったとされる。巨人時代の西本聖との確執はあまりにも悪名高いが、阪神時代は米田哲也と仲が悪かった。
その一方で若手を育てるのはそこそこ上手かったようで、阪神時代は山本和行をリリーフに起用して頭角を現させ、近鉄時代には佐野重樹を一軍に定着させている。さらに巨人時代には桑田真澄を手塩にかけて育てており、桑田は後に「皆川さんには随分励まされました」と感謝の言葉を述べている。
ある試合で、3ボール0ストライクになってしまってからの4球目、「このバッター打つ気なさそうだなあ」と思ってしまい、ストライクゾーンの真ん中に手を抜いたようなストレートを投げてしまった結果、主審からボール判定をされてしまう。驚いた皆川と、バッテリーを組んでいたノムさんは「ど真ん中に投げたのにどうしてボールなんですか!?」と訴えたが、主審は「魂がこもっていなかったからボールと判定したのだ」と切り返した。当然ながらノムさんは「何なんやこの主審は・・・・」と呆れたものの、皆川の方はといえば「ああ、そうか。そう言われてみればなあ・・・」と反省、以後手を抜くようなピッチングをしないよう心がけたのだった。もっともこの主審、ある監督に因縁を付けられた事に激高し「俺がルールブックだ!!」と反撃した人物だったりする。こんな事をしてしまったのも、宜なるかな。