「俺がルールブックだ」の名言で知られる審判員。
1901年8月31日生まれ。
明治大学では東京六大学リーグの前身、五大学リーグも含めて62試合出場し、230打数51安打、打率.222。
当時はリーグ戦でも学生同士が審判をしており、技術は未熟だったため、審判制度の確立が必要であると考え、野球ルールの習得も同時に行っていた。
1925年に明大を卒業すると京阪電気鉄道に入社し、大阪のクラブチーム「全大阪」や、京阪電気鉄道野球部でプレー。
1929年に退社し、和歌山の海草中学(現・和歌山県立向陽高等学校)の監督となり、その年の夏の甲子園大会に初出場し準優勝。
1934年に日米野球の全日本選抜メンバーに選出。日米野球終了後、創立間もない大日本東京野球倶楽部(翌年より東京巨人軍)に参加し、初代背番号1を背負った。
1936年には再び創立して間もない名古屋金鯱軍へ江口行男と共に選手兼任監督として移籍。
同時期、日本職業野球連盟(現在の日本野球機構のルーツ。後の日本野球連盟 - 同名のアマチュア野球組織とは関係無い)が結成されると7月に選手を引退し、審判に転身。
1950年、2リーグ分立に伴いパシフィック・リーグの審判となり1960年に横沢三郎の後を受け第2代審判部長に就任。
1963年同部長を引退。
1970年、競技者表彰として野球殿堂入り。
1989年10月16日に肺炎のために88歳で死去。
娘に宝塚歌劇団出身の元女優・高千穂ひづるがおり、「月光仮面」で一世を風靡した俳優大瀬康一と1964年に結婚したが、二出川たっての懇願でまもなく芸能活動を引退、二出川の事業を二人で手伝い、没後は社業を守っている。