概要
大日本帝国陸軍の軍人であり、スバス・チャンドラ・ボースらと共に自由インド仮政府とインド国民軍を立ち上げ、日本によるインドの独立支援の核となった特務機関『F機関』の機関長を務め、インド人達からは『日本版アラビアのロレンス』と称され、独立の英雄として称えられている。
インド国民軍の創設
マレー・シンガポール攻略戦を前に、大本宮は対イギリス戦に備えるべく、藤原岩市少佐を機関長とした諜報工作の特務機関『F機関』を編成し、マレー半島に布陣していたイギリス軍の7割を占めていたインド人兵士たちに投降を呼びかけ、インド独立のために立ち上がらせようとした。
部下思いで知られた藤原少佐は、誠心誠意と真心をもってインド人兵士の帰順に全力を尽くし、その際にマレー半島西岸の街「アロールスター」の近郊にある天然ゴムの農園に潜んでいたインド人兵士たちを説得した時、当時インド人兵団のリーダーだったモハンシン大尉と出会い、後にインド国民軍を組織して日本軍と共に戦うことになる彼と藤原少佐は、特別に訓練したインド人兵士数名を1組として編成し、F機関の機関員1名と共に敵陣の深くに潜入させ、インド人兵士を説得していき、投降した兵士の数はみるみる膨れ上がっていった。
そうして1941年12月、日本軍がイギリス植民地であったマレー半島、シンガポール、ビルマに攻め込んでイギリスと交戦状態に入り、破竹の勢いでイギリス軍を撃破し、ついに2月15日にはイギリス軍の東洋における要塞であったシンガポールを陥落させ、マレー沖海戦(マレー作戦)の歴史的な完全勝利を飾った。
シンガポール占領後にF機関の機関長である藤原少佐は、ファラ・パーク競技場でイギリス軍から接収した4万5000人のインド人兵士の俘虜を前に、
「日本の戦争目的は、一に東亜民族の解放にあり、日本はインドの独立達成を願望し、誠意ある援助を行なう。ただし、日本はいっさいの野心ないことを誓う。インド国民軍、インド独立連盟の活動に敬意を表し、日本はインド兵を友愛の念をもって遇する。もし国民軍に参加したい者があれば、日本軍は俘虜の取り扱いを停止し、運動の自由を認め、いっさいの援助を行なう」
とした演説を行った。
この演説を聞いた4万5000人のインド人兵士たちは大歓声を上げ、この日をもって日本軍の“友軍”となり、これがインド国民軍の誕生の瞬間だった。