ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

スリガオ海峡海戦の編集履歴

2017-01-16 13:39:52 バージョン

スリガオ海峡海戦

すりがおかいきょうかいせん

スリガオ海峡海戦とは、1944年10月25日にレイテ沖海戦の中で発生した戦いである。

レイテ沖海戦の流れは、該当記事を参照されたし。


スリガオ海峡突入作戦

西村祥治中将指揮の第二戦隊(山城扶桑)は、第一遊撃部隊主力と共にブルネイ湾に進出。当初は一緒に突入する筈であったが、手配されている筈の燃料がなく、部隊が独自に手配した補給船が1日遅れで到着する事で、日程の余裕がなくなり、低速の部隊を最短ルートで挟撃させる事になり、第二戦隊を主力とする第3部隊(通称西村艦隊)が編成され、北方からレイテ湾に突入する栗田艦隊と呼応して南のスリガオ海峡から突入する事になり、スル海からスリガオ海峡に向けて進撃していた。

途中には米艦載機部隊の攻撃を受けるが敵の目が栗田艦隊に向いたため、たいした被害もなく航行を続けていた。


一方、行く先のスリガオ海峡にはオルデンドルフ少将率いる水上打撃部隊が展開しており、

ウェストバージニア・メリーランド・テネシー・カリフォルニア・ミシシッピ・ペンシルヴェニアの改装済み旧式戦艦6隻の他、旗艦ルイビル以下重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦28隻、魚雷艇39隻で構成された大艦隊が鉄壁の迎撃態勢を敷いて待ちかまえていた。


米軍の作戦は、初めに水雷艇が敵艦隊を発見し(可能であれば攻撃)、次に敵艦隊がスリガオ海峡に突入すると駆逐艦が魚雷攻撃、最後に海峡出口に蓋をするように展開(丁字有利)した戦艦・巡洋艦の戦列艦が砲撃戦で止めを刺すという、まさに蟻一匹も逃さない構えであった。


囮作戦が中々奏功せず、そのため米機動部隊の攻撃を受けた栗田艦隊は大損害を被り、突入が遅れる事となった。遅延を知った西村中将は自艦隊の状況を第二艦隊司令長官栗田健男中将に報告したが、艦隊は大空襲の最中でもあり栗田からは何も指示がなく、西村は予定を逆に繰り上げ、自艦隊だけで敵艦隊の待ち受ける夜間のスリガオ海峡に突入した。


なお、24日22時40分以後にようやく栗田長官から「25日09時に合流せよ」という電報が大和から発せられたが、第3部隊は米水雷艇との戦闘を開始しており、手遅れとなった。


前哨戦

24日18時30分、フィリピンの内海ミンダナオ海に突入していた第3部隊は、「最上」「満潮」「山雲」「朝雲」からなる掃蕩隊を分離、先行させた。


22時52分、「時雨」「山城」「扶桑」からなる本隊は突如米軍の魚雷艇小隊(1個小隊3隻)と遭遇した。本隊はすぐに魚雷回避行動をとりつつ、魚雷艇に向けて集中攻撃を行った。魚雷艇は直ちに退避し、その後も本隊を追跡し触接を行った。


一方、掃蕩隊も25日00時20分頃に米魚雷艇を発見した。最上以下掃蕩隊は魚雷艇を撃破しようとしたが、スコールに入った魚雷艇を見つけることができず攻撃できなかった。そうするうちに最上は魚雷艇からの雷跡を確認した。最上は魚雷を回避し、後続の駆逐艦は最上に接近した魚雷艇に機銃攻撃し魚雷艇も機銃で反撃したが、両者に被害は出なかった。視界不良により魚雷艇との戦いは不利であると判断した最上艦長は00時28分に本隊との合流を決めた。


スリガオ海峡突入と第1次米駆逐艦群襲撃

02時00分頃、合流した第3部隊がスリガオ海峡に突入し北上を開始しようとしたまさにその時、先頭の駆逐艦満潮が米魚雷艇を発見した。艦隊は時折魚雷回避のために一斉回頭しつつ魚雷艇への攻撃を行った。第3部隊は3個小隊から攻撃を受けたが一本も被雷することなく攻撃を切り抜け、以後魚雷艇からの攻撃は無かった。しかしこれは南下する米駆逐群に獲物を引き渡すためであった。


02時16頃に魚雷艇との戦闘が終わり、一旦落ち着いた第3部隊は北上を続けていたが、02時53分に駆逐艦時雨が右舷前方に米駆逐艦を発見し、西村司令官は左右の駆逐艦(時雨と山雲)を呼び寄せ、駆逐艦先頭の単縦陣を下令した。一方、第3部隊が発見した米第54駆逐聯隊東側隊は03時00分に魚雷発射を開始し計27本の魚雷を発射すると反転、煙幕を展開し退避した。


03時09分から第3部隊は砲撃することも無く退避した米駆逐艦への一斉射撃を開始したが、米駆逐艦群の魚雷発射には気が付かなかったらしく、そのまま直進を続けた。そして03時10分頃、戦艦「扶桑」の右舷中部に魚雷が命中し、米軍は2~5発の炸裂を認めた(日本側に扶桑被雷及び沈没の詳細無し)。被雷後扶桑は右に逸れて航行不能になり、やがて大爆発を起こして船体が二つに折れた。折れた船体はその後も炎上したまま浮上、漂流を続けた。


第1次米駆逐艦群第二波

旗艦「山城」は扶桑の被雷、落伍に気付くことなく前進を続けていた。そして米駆逐群の第1次攻撃から間もない03時13分に時雨が今度は艦隊の左舷前方に敵影を、1分後に山雲が雷跡を発見した。直ちに西村司令官は艦隊に右90度の緊急回頭を命じ、また03時22分に栗田長官に向けて敵艦発見の電報を送った。第3部隊は米第54駆逐聯隊西側隊に対して砲撃を開始したが、またも米駆逐艦群は反撃することなく煙幕を展開し退避していった。


第3部隊は回頭後2分間東方向に進行していたが、03時18分に進路を0時方向に戻し北上を再開した。すると03時20分に緊急左45度の回頭の命令が下った。しかし時すでに遅く、命令の直後に先頭の満潮とその後方に付こうと運動中だった山雲、そして朝雲と山城が相次いで被雷した。これにより満潮が航行不能、山雲が轟沈、朝雲が艦首を切断された。一方山城は速力が低下することもなく前進を続けた。また、山雲と同様に入列運動中だった時雨は北東に向けて航行中であったため、幸いにも魚雷が命中する事はなかった。


一連の水雷戦の結果、無傷の艦は最上と時雨のたった2隻となった。


「旗艦はいづこ、旗艦はゐずや」

駆逐艦時雨は山城の前方にいたが、前続艦を失い自艦の位置も喪失していた。この時、時雨艦長は山城が落伍し扶桑が突進しているものと勘違いしていた。そのため旗艦山城の消息を確認し司令官の移乗の必要性が有るか確かめようと反転、南下したが、見つけられなかった。そのため仕方なく先行する扶桑(実は山城)の後方に付き、扶桑に向けて追従する旨を電話したが、既に爆沈していた扶桑からの返答は無かった。これを聞いていた山城の西村長官も扶桑に対して最大速力の確認の電話をしたが、当然これに扶桑が応える事はなかった。更にこの山城の電話を聞いた時雨は直ちに山城に対して状況確認の電話をしたが通じなかった。


この後再び山城が被雷した際に西村司令官は「我レ魚雷ヲ受ク、各艦ハ前進シテ敵艦隊ヲ攻撃スベシ」と命令したが、それでもなお前進を続けた。これを聞き、また艦隊を率いて進む扶桑型戦艦を見た時雨艦長は山城が既に落伍しており、艦隊の指揮権が扶桑艦長に移譲されているものと考えた。


第2,3次米駆逐艦群襲来と米戦列隊の砲撃、旗艦山城の最期

この混乱の間も第3部隊に対する米駆逐群の魚雷攻撃が止む事はなかった。上記の米第54駆逐聯隊に続いて米第24駆逐聯隊が山城と時雨に襲い掛かった。これにより03時30分頃山城が2本目の魚雷を受けた。


その後も北上を続けていた3隻だったが、03時50分頃から敵戦列隊の砲撃圏内に入り前方の巡洋艦部隊は03時51分から、戦艦部隊は03時53分から砲撃を開始した。一方山城は、最初の被雷の時点で弾薬庫誘爆の危険性が生じたため5,6番砲塔弾薬庫に注水し、更に敵の砲撃を受けやがて艦橋付近で火災が発生したため3番砲塔以下の主砲が使用不能になった。このため1,2番砲塔のみで応戦することとなった。米軍側の資料では、オーデンドルフ隊は第3部隊に対し16インチ及び14インチ砲弾約300発、8インチ6インチ砲弾4000発を発射し、その大半は山城に向けられたものだった。


この砲戦の間にも第3次米駆逐艦群が山城に接近し雷撃を開始した。このうちの一本の魚雷が南方へ退避しようとする山城の右舷機関室付近に命中し、ついに山城の主機は停止した。更にもう一本が右舷に直撃し、艦は傾斜し始めた。そして総員退去命令後2分で転覆し、04時19分に山城は艦尾から沈んでいった。


生きて日本に戻れた山城乗組員は士官2名、下士卒8名だけだった。


最上、時雨の退避と米軍の同士討ち

それまでは無傷だった最上も、03時50分以降の米軍の砲撃開始以後被害を受け始め、艦橋員が信号員4人を除き全滅、第3砲塔が使用不能という大損害をこうむった。03時55分頃、最上は魚雷4本を発射すると南方への退避を図った。この魚雷は退避中の米駆逐艦の傍を通った。酸素魚雷の威力を知っていた米軍は戦列隊の戦艦3隻に緊急の真北への回頭を命じ、一時的に戦艦3隻が戦列から離脱することになった。


時雨も米軍の砲撃を受けたが避弾運動をしつつ北東の砲撃圏外に出ることができた。04時00分頃、山城と最上が炎上しているのを認めた艦長は、第3部隊が全滅したと判断し、独断反転して戦場離脱のために南西に向かった。反転後直ぐに敵の砲撃を受け、8インチ砲弾一発の命中弾と一発の至近弾を受けた。またしても幸いなことに命中弾は不発だったが、衝撃で舵が故障したため応急操舵で離脱した。


一方米軍の方では同士討ちが起きていた。第56駆逐聯隊(第3次駆逐艦群)の第1小隊は山城に少なくとも1本の魚雷を当てた後、北上、退避しようとしたが、丁度砲弾の雨の真ん中に飛び出す形になった。その結果、小隊の最後尾艦に18発の砲弾(11発が米軽巡、7発が山城)が命中し航行不能に陥った。同士討ちを知ったオーデンドルフ少将は04時09分に砲撃を10分間中止させ、同小隊が退避する時間を持たせた。低速(推定8ノット程)でしか航行できなかった最上もその隙に米軍の砲撃圏から脱出することができた。


志摩艦隊の到着、最上との衝突

第2遊撃部隊(志摩艦隊)はスコールによる視界不良に悩まされ、さらにスリガオ海峡突入直後に軽巡阿武隈が被雷した(03時24分)が北上を続けた。04時00分に海峡の中頃で扶桑型らしき船体が二つ炎上、停止しているのを発見した。志摩長官はこれを山城と扶桑だと考えた(実際は二つに折れた扶桑であったと思われる)。


第2遊撃部隊は炎上する船体の横を過ぎると前方に一隻の敵駆逐艦を発見した。敵駆逐艦は煙幕を展開しており、すぐに煙幕の奥に隠れた。そこで第2遊撃部隊は電探または目視で敵を捕捉し、まず重巡(那智、足柄)が雷撃し、次いで駆逐隊が突撃、重巡が駆逐隊の支援をすることにしたが、丁度その時煙幕の隙間に炎上、停止しているように見える巡洋艦を認めた。志摩長官は電探による魚雷攻撃を信用していなかったが、参謀長が確認することなく那智の電探に映った目標に向けて魚雷攻撃を命令した。長官が気付いた時には既に発射運動に移っており、土壇場での中止による混乱を防ぐためにやむなく追認した。


なお、電探が指していた地点に米艦船はなく、その2倍の距離にヒブソン島があった(志摩長官の回想の方向には山城がいた)。


問題は魚雷発射後に起きた。炎上、停止していると見られていた巡洋艦は退避中の最上であり、前述の通り微速前進していた。那智は停止している最上の前方を通過するつもりでいたが、最上が前進していたため、回避行動もむなしく那智は南下する最上と反航する形で最上の右舷前部に約20度の角度で衝突した(4時20分)。最上は右外舷が少し曲がる程度の軽度の損傷だったが、那智は艦首が大破し浸水が発生、速力も20ノット以上出せなくなった。両艦はしばらく接舷したまま航行し、やがて那智は反転すると南へ遠ざかっていった。


残存艦隊の撤退

志摩中将は敵情不明を理由に撤退を決意すると突撃していた駆逐隊を呼び返し、艦隊は海峡脱出を開始した(4時25分)。


衝突後も最上は単独で南下を続け、途中で艦首を喪失し低速で南下撤退中の朝雲を追い抜いた。しかし05時20分頃、突如最上は北方から大、中口径砲の砲撃を受けた。射撃は約5分間続き、最上は10発以上(約20発)の命中弾をうけた。オーデンドルフ少将は日本軍の雷撃を警戒し、最上への砲撃もそこそこに05時37分に変針した。かくして、ようやく最上はオーデンドルフ隊の追撃から逃れることができた。07時20分頃、一水戦司令部の阿武隈から霞への移乗のために留まっていた第2遊撃部隊に追いつき、最上の護衛として第2遊撃部隊から曙が派遣された。


阿武隈に駆逐艦を、最上には駆逐艦を護衛につけてコロン湾に向かわせたが、

26日に機動部隊の空襲を受けて阿武隈は沈没し、最上は総員退艦後に曙の魚雷で処分された。


時雨は単独で南下を続け、04時40分頃に第2遊撃部隊に遭遇した。那智から「那智ノ後ニツケ」との信号を受けたが、志摩長官の指揮下ではないため単独での南下を続けた。その後は魚雷艇を撃退し、3度の航空攻撃を切り抜けて27日17時00分にブルネイに到着した。


朝雲は03時20分頃に被雷して一時航行不能に陥り、米駆逐艦群の第2次攻撃で雷撃されたが、魚雷は機関室に被雷し同様に航行不能に陥っていた満潮に当たり、難を逃れた。その後12ノットの速力を回復し、南下、撤退を開始した。04時50分頃、退避する最上を見つけたが、最上の速度に追いつくことができず独り取り残された。05時20分頃、北方より電探射撃を受け、5発命中、船尾に火災発生、速力も9ノットに低下した。その後も火災は収まらず更に拡大したため、艦長は総員退去を決断し艦長以下乗組員は内火艇に移乗した。間もなく米巡洋艦・駆逐艦艦隊が接近し07時07分に射撃開始、07時21分に朝雲を撃沈した。内火艇も米駆逐艦2隻によって撃沈され、結果的に生還、捕虜収容所に収容された朝雲乗組員は艦長ら30人余りだった。


サンベルナルジノ海峡を抜けてサマール島沖を航行していた栗田艦隊の旗艦・戦艦大和は、5時32分に西村艦隊の全滅を知る。

志摩艦隊を待たずに単独突入を決意した西村中将の評価は分かれているが後に小沢治三郎中将は「レイテで本当に真剣に戦ったのは西村だけだった。」と評した。


70周忌


関連タグ

太平洋戦争 レイテ沖海戦 エンガノ岬沖海戦 山城 扶桑 最上 満潮 時雨 ウェストバージニア テネシー級 ミシシッピ ペンシルヴェニア

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました