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織田組の編集履歴

2017-03-26 04:07:01 バージョン

織田組

おだぐみ

ブラウザゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』に登場する刀剣男士のうち、織田信長を元主とする「宗三左文字」「へし切長谷部」「不動行光」「薬研藤四郎」を中心としたグループタグ。

概要


ブラウザゲーム「刀剣乱舞」において織田信長を元主とする宗三左文字へし切長谷部不動行光薬研藤四郎らが描かれた作品につけられるタグ。


2015年1月のサービス開始時は、宗三左文字へし切長谷部の二振が元主である信長に言及し、それぞれ複雑な思いを抱いていることを窺わせた。この二振りの紋は織田家紋である木瓜紋を取り入れたデザインとなっている。

初期実装の回想其の7『今川の剣』では宗三左文字が桶狭間の戦いにおいて織田信長の手に渡った事への心境を語っている。


2016年2月不動行光が織田信長の愛刀として実装され、内番手合わせの特殊台詞にて宗三左文字へし切長谷部の他に薬研藤四郎が信長所有であることが示唆された。

この時実装された其の25『悲しみと、なぐさめ』では、本能寺の変においてのへし切長谷部不動行光のそれぞれの織田信長への想いを垣間見ることができる。


2016年5月に舞台「『刀剣乱舞』虚伝 燃ゆる本能寺」が公演された。

12振の刀剣中、宗三左文字へし切長谷部不動行光薬研藤四郎の4振りの織田の刀が織田信長や本能寺の変を巡る物語のシーンの中心として描かれた。

この舞台の報道記事や演者のブログ・Twitterなどではこの4振りを指して「織田組」という呼称が使用された。


2016年10月からのアニメ刀剣乱舞-花丸-では第2話にて宗三左文字へし切長谷部薬研藤四郎の三振りが本能寺の変に出陣し、三振りのED曲「心魂の在処」を歌唱した。


2016年10月4日薬研藤四郎が実装された。修行中に彼が元の主としての織田信長を語る手紙を読むことができる。


2016年12月15日から2017年1月17日まで舞台「『刀剣乱舞』虚伝 燃ゆる本能寺」が再演された。



二次創作では、一説に信長が所有したとされる刀や、家臣のものとされる刀剣も含めて「織田組」とすることもある。原作中の設定以外では織田信長が生前所有したとされる刀・家臣のものとされる刀の数が多く、今後も関連する来歴の刀剣が実装または判明する事が予想されるグループタグである。


タグ付けに際する注意

このタグは腐向けタグではない一般向け作品にも使用されている。腐向けの場合は本タグの使用を控えること。


構成メンバー

現在(2017年1月)確認されているのは、以下の4名。


No.81 宗三左文字:打刀

第六天魔王


歴代の主の中で織田信長のみを名前ではなく「魔王」と呼ぶ。信長が戦勝の記念に入れた刻印が左胸元に蝶と髑髏をモチーフとした刺青のようなもので再現されており、中に「第六天魔王」と記されている。信長が刻印を入れてから今の自分があると言い、刻印が主達を狂わせ執着させたとしている。


兄の江雪左文字を部隊に入れて戦国の記憶 桶狭間ステージに出陣すると桶狭間で今川から信長の手へ渡ったことに対する想いを語る回想を見ることができる。(回想其の7)


【織田に関するエピソード】

信長が自らの名前と歴史を刻んだ終生の愛刀。


信長が永禄三(1560)年、桶狭間の戦いで義元に快勝した際分捕った左文字の太刀。

この戦いで織田家存亡の危機を脱した信長はよほどうれしかったのかこの刀を磨上げ、茎に「永禄三年五月十九日 義元討捕刻彼所持刀 織田尾張守信長」と名を切らせている。


この事について『信長公記』にはこう記されている。

『今度分捕に、義元不断さされたる秘蔵の名誉の左文字の刀召し上げられ、何々度もきらせられ、信長不断さされ候なり。』

何度も試し切りをさせたところ切れ味が良かったので常から腰に差してしまうほど信長のお気に入りになってしまったと言う事らしい。


信長が桶狭間の戦いに向け参拝した熱田神宮で戦勝祈願のために空高く投げた永楽通宝がすべて上を向いたという。それを吉兆とした信長は織田軍旗にも使用されている永楽通宝を紋様とした鉄鍔を宗三左文字のために作らせた。

この逸話と、信長が宗三左文字を愛刀としてから戦に連戦連勝した事を受け「まけずの鍔」と呼ばれるこの鉄鍔は、現在も重要文化財として安土城跡総見寺に所蔵されている。

この鉄鍔の永楽通宝の紋様はアニメ「刀剣乱舞-花丸-」第2話エンディング映像で宗三左文字の鍔の紋様としても使用された。


天正十年六月二日(1582年6月21日)、信長の最期となる本能寺の変まで手元に置かれたとされる。

その後については

1)炎に巻かれ焼け跡から秀吉が見つけ所蔵した説

2)枕席に侍っていた神官の娘が持って逃げ出し後に秀吉に献上した説

などがあるが、刀剣乱舞の宗三左文字は本能寺で一度焼けた説が採用されており

明暦の大火と合わせ2度の火災の影響を受けていることが作中の台詞からも伺える。


明治13(1880)年に徳川家より奉納され、現在信長を主祭神とする建勲神社所有となっている。




No.118 へし切長谷部:打刀


作中では信長を「織田信長」「前の主」「そういう男」といった表現で呼び

へし切と言う名前で呼ばれる事を避けるように言う等、話題にはするが信長から距離を

置こうとする台詞が多く見られる。反面、今の主の命を果たす事を絶対としている。


不動行光を部隊に入れて織豊の記憶 本能寺ステージへ出陣すると、2振りの織田信長に対する回想を見ることができる。(回想其の25)

回想では不動行光がある場面で口にする織田信長が好んだ敦盛になぞらえて諸行無常を説いている。


【織田に関するエピソード】

その名から信長の苛烈な性格を伝える愛刀の一振り。


『享保名物牒』という書物に

『信長が無礼を働いた観内という茶坊主を、隠れるため潜り込んだ膳棚ごと圧し切ってしまった』

という名付けの由来とすさまじい切れ味を示す逸話が残っている。


同様の逸話が記されている『黒田家御重宝故実』に棚を切ったという記述はない。

刀剣乱舞のへし切長谷部は刀帳の台詞から棚ごと圧し斬った説を採用していることが分かる。


天正三(1575)年、信長が中国征伐の献策を賞し播磨衆の家臣黒田孝高(如水)に下賜したとされる。


打刀に磨上られたのは黒田家に渡った後、信長所有時は大太刀または太刀であったとされる。




No.120 不動行光:短刀

新刀w

2016年2月実装


自身が織田信長公がたいそう愛した逸品である事を誇りにしている。光秀や火に囲まれることなど本能寺の変に対する言及が多く、主を救えなかった事を悔やみ「ダメ刀」を自称している。作中では織田信長の事を「信長公」や「信長様」(回想時のみ)と呼ぶ。

紋のデザインは蘭丸に拝領された事を反映してか上記2振が織田木瓜紋を取り入れているのに対し森家の鶴紋を取り入れたものとなっている。


へし切長谷部を部隊に入れて織豊の記憶 本能寺ステージへ出陣すると、2振りの織田信長に対する回想を見ることができる。(回想其の25)

回想では自身がある場面で口にする織田信長が好んだ敦盛になぞらえた台詞で諸行無常を説かれることによってへし切長谷部の意を汲んでいる。


【織田に関するエピソード】

信長が小姓の森蘭丸に拝領した自慢の愛刀。


信長は酔って気分が良くなると膝を叩いて「不動行光、つくも髪、人には五郎左御座候」と歌ったという。

五郎左とは信長の重臣 丹羽長秀のこと、つくも髪とは永禄11(1568)年に松永久秀が献上した茶器「九十九髪茄子」の事であり、この逸話はこの時期かこの時より後のものとなる。

このエピソードは信長が所有した太刀「不動国行」と混同されており、どちらの逸話であるか正確なところは不明である。

刀剣乱舞では公式ツイッターや本丸の台詞から不動行光のエピソードとして扱われている。


天正5(1577)年5月頃より小姓として織田信長に召し抱えられた森蘭丸に、その後拝領される。


不動行光には森蘭丸拝領に関しての逸話がある。

信長の厠を待っていた小姓の森蘭丸は、待つ間に預かっていた信長の腰刀である不動行光の黒漆の刻み鞘の目の数を数えていたという。ある時信長は、戯れに集めた自分の小姓達に「不動行光の鞘の刻み目の数を当ててみよ。当てられたものには褒美にこの刀をやろう」と言った。小姓達は思い思いに数を言ったがなかなか当たらない。ところが当の蘭丸だけが数を言おうとしないので、信長は不思議に思い「なぜお前は言わないのか」と問うた。すると蘭丸は、自分が刻み目の数を数えて知っていることと、それ故に答えるのは不公平なので黙っていたことを告げた。

信長はその正直さに感心し不動行光を与えたのだという。


本能寺の変にて蘭丸と共に焼けたと伝わる。

その後再刃され小笠原家に伝わり現在個人蔵。




No.49 薬研藤四郎:短刀

薬研

2016年10月4日に実装されたでは、修行先に安土の織田信長の元へ赴いており、手紙では信長についてどう思っているのか述べている。


【織田に関するエピソード】

松永久秀より献上された信長の愛刀の一振り。


『信長公記』元亀四(1573)年の項に名前を見ることができる。

『正月八日、松永弾正、濃洲岐阜へ罷り下り、天下無双の名物、不動国行進上候て、

御礼申し上げらる。以前も、代に隠れなき薬研藤四郎進上なり。』

「以前も」とあることから信長公記によれば松永久秀(弾正)が薬研藤四郎を進上したのはこの時期よりも前ということになる。しかし『享保名物牒』には元亀四(1573)年に献上されたとする記載がある。

上記より正確な時期は不明であるが、松永久秀が信長に仕えはじめ九十九髪茄子を進上したのは永禄十一(1568)年であるため、薬研藤四郎が信長の元へ渡ったのは少なくとも1568~1573年の間であると予想される。


本能寺の変にて焼失したとされる(『享保名物牒』)が、諸説あり定かではない。





関連する刀剣


信長が所有していた可能性がある刀剣


No.73 燭台切光忠:太刀

信長は25振かそれ以上とも言われる数の光忠を集めていたとされる。

この燭台切もその内の一振りだったのではないかとされるが、根拠となるものは存在せず

伊達政宗より前の持ち主は定かではない。燭台切という号は伊達家に伝わって以降の物である。

二次創作ではよく織田に組み込まれるが、ゲーム本編と織田組をメインとした舞台「『刀剣乱舞』虚伝 燃ゆる本能寺」及びアニメ「刀剣乱舞-花丸-」において織田には一切言及しておらず、伊達の刀として紹介されている。


No.130 鶴丸国永:太刀

織田信長が所有し、御牧勘兵衛景則に与えたとされる。

燭台切と同じく二次創作でよく織田に組み込まれるが、ゲーム本編と舞台共に織田には一切言及しておらず、主を転々とした刀または伊達の刀として紹介されている。

アニメ「刀剣乱舞-花丸-」の第2話では織田信長に所持されていた時期があったことに触れている。


No.136 日本号:槍

公家から足利義昭に下賜されたのち織田信長が所有し、その後豊臣秀吉に伝わったとされる。

信長を介さず足利家から豊臣家に伝わったとする説もある。

日本号という号が与えられたのは豊臣家に伝わって以降とされる。

作中の回想にて信長を「右府様」と呼ぶ。信長が所持したか等関係性は明らかにされていない。



織田信長の家臣が所有したとされる刀剣


No.19 にっかり青江:脇差

信長の重臣である柴田勝家、丹羽長秀が所持したとされる。後に豊臣秀吉に伝わる。

上記の元主や織田への言及はなし。


No.27 鯰尾藤四郎:脇差

織田信長の二男であり伊勢国司・北畠具房の養子、家臣 北畠(織田)信雄が所持していたとされる。

信長に仕えていた際に所持していたかは不明。後に豊臣秀吉に伝わる。信雄及び織田への言及はなし。


...他多数



関連イラスト

長谷部といっしょ!花丸ありがとう刀剣乱舞◆07


関連タグ

刀剣乱舞 宗三左文字 へし切長谷部 不動行光 薬研藤四郎

おだて組…織田組+伊達組のグループタグ

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