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妙高型重巡洋艦の編集履歴

2017-06-07 17:53:25 バージョン

妙高型重巡洋艦

みょうこうがたじゅうじゅんようかん

日本海軍が建造した重巡洋艦の級名。

艦隊これくしょん』のものについては妙高型へ。


概要

大日本帝国海軍重巡洋艦の艦型の一つ。同型艦は4隻。二番艦の那智が妙高より8ヵ月早く竣工したため、那智型とも。

妙高型重巡洋艦はワシントン海軍軍縮条約の制限に基づき建造された10,000トン級重巡洋艦であり、青葉型重巡洋艦の発展型といえる艦型であった。設計の主たる物は平賀譲造船官の手による。


当初は八八艦隊計画案における20cm砲10門7200トン巡洋艦として計画されていた。ところがワシントン条約が締結されるにともない、基準排水量制限10,000トン内で最大の攻撃力と防御力を併せ持つ有力な艦が要望され、計画は変更された。軍令部案では20cm砲8門・61センチ魚雷八門で35.5ノットの要求であったが、魚雷兵装の坑堪性への危惧から平賀は魚雷全廃の代わりに主砲10門艦への試案が提出された。大正12年(1923年)、これが容れられ、補充艦艇製造費で大正13~14年度に4隻が建造される事となった。


ところが軍令部は平賀が欧州視察に赴いた不在を狙って藤本喜久雄造船官に妙高型の改設計を命じ、本型に魚雷発射管が装備されることとなった。そして本型は「クラスA(大巡、甲巡・軍縮条約において規定された巡洋艦のうち8インチ砲を搭載するもの)妙高型巡洋艦」として完成した。

軍令部の強い要望(2艦隊旗艦として駆逐艦と共に突撃させる為には雷装は不可欠との想定)を受けて藤本により雷装が復活したものの、魚雷の強度上の問題から、魚雷発射管は艦内・中甲板に61cm三連装魚雷発射管を固定装備で片舷2基ずつ計4基とされた。これにより居住区画が不足するなど、設計は錯綜した。完成した本型は波形船型による船殻重量の軽減などで重兵装の設計を図ったもののこれに失敗、更に艦橋構造は不足した居住区を増設したために青葉型よりも大型化した。雷装の追加で200トン、追加の兵員室など設計外重量の追加で900トン増加など、これら要因により予定の排水量より1割弱(980トン)重くなった。結果、条約制限を超過してしまった。


その後昭和7年(1932年)から昭和11年(1936年)の第一次、13年からの第二次改装により、主砲を正八インチ砲へと改正(砲身の内筒を203mmのものに交換)、主砲弾の重量弾化(110kgから125kg)、砲弾の給弾法を押し上げ式からつるべ式に改正、浮力確保のため大型のバルジを追加、「八九式 12.7cm(40口径)高角砲」を連装砲架で4基への改正、25mm機銃の増備、魚雷発射管を次発装填機付き九二式四連装魚雷発射管への更新、カタパルトの増設・搭載水偵の増載と重量増加に伴う水偵格納庫の撤去、また、機関関係ではボイラーが一部高温缶に取り替えられかつ巡行時に外舷側2軸推進であったものを4軸全てを推進する形式に変えた事により250トンの燃料減載にも関わらず航続距離は14ノット/7,000海里から14ノット/7,500海里に延伸した。ただし船体幅が増加したために速度は35ノットから33.3ノット程度へと低下した。


全艦がレイテ沖海戦を生き延びるほど長く戦い抜いた武勲艦であったが、その後の戦闘で相次いで戦没、終戦まで生き延びたのは妙高のみ。(その後英軍によって接収されたが昭和21年(1946年)7月8日にマラッカ海峡にて海没処分。)


No艦名造船所起工進水竣工戦没
一番艦妙高横須賀1924/10/251927/04/161929/07/311946/07/08(海没処分)
二番艦那智1924/11/261927/06/151928/11/261944/11/05
三番艦足柄神戸川崎1925/04/111928/04/221929/08/201945/06/08
四番艦羽黒長崎1925/03/161928/03/241929/04/251945/05/16

関連項目

日本海軍 重巡洋艦

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